1877年,三重県伊勢の神官の家に生まれる。北海道に渡り,受洗。のち新渡戸稲造夫妻と渡米,ブリンマー女子大学に留学。1904年帰国,津口英学塾で教え,YwcAの専任初代総幹事になる。1929年恵泉女学園を創設し,戦時中も迫害にめげず,平和とキリスト教教育を説く。1953年死去。

1905年、女子英学塾卒業式。津田梅子(後列左から2人目)と河井道(同4人目)

都田恒太郎牧師が河井道に対し、日本と米国の緊迫した関係を解くためにアメリカへ行くことを求めました。河井道は自身が創設し経営する恵泉女学園の責任を果たすべきとし、学校の生徒数が増加し、卒業と入学のシーズンを迎える重要な時期であることを理由にこれを断りました。それにもかかわらず、都田牧師は日本キリスト教連盟の総幹事として、日米問題を協議するための会議が予定されており、その場に河井道の参加が望まれていると述べ、再度強く求めました。この会議は米国キリスト教連盟からも歓迎され、アメリカの著名な教会代表者が参加する予定であり、日本からも複数の教会代表者と、唯一の女性として河井道が求められています。

河井道は、自身に課せられたアメリカへの旅と任務の大きさを認識し、その責任が重すぎると述べました。しかし、都田牧師は、この旅は単に物事を求めるものではなく、過去の宣教師たちへの感謝の祈りを伝えるためのものであると強調しました。その言葉に触れ、河井道の心は深く動かされました。都田牧師が去った後、彼女は学業が始まる前に静寂の中でその使命について熟考し、祈りました。その後、自身の恩師であるスミス女史と、他の無名の宣教師たちの奉仕と祈りに思いを馳せ、彼らへの感謝の感情に満たされました。その瞬間、彼女は任務の真の意味を理解し、感動を覚えました。

その日、河井道は仕事の合間に祈り続け、夜は親友の一色ゆりと深く語り合いました。学校を離れたくないとき、都合が悪いとき、行きたくないときに、困難な道が開かれました。四国の多田素牧師からの電報が来て、祈りと感謝の大切さを再認識しました。平和を求める心を持つ彼女は、「神の意志に従い行動する」と決意し、米国への旅を決断しました。

彼女はその心境を、洪水から村を守る少年の話に例えました。これは彼女にとって二度目の平和への使命でした。最初は日本と中国間の戦争が始まる直前に、日本のキリスト者使節団の一員として中国のクリスチャンを訪れたときでした。そのとき得た友情は素晴らしいものでしたが、戦争のせいで二つの国間には溝ができ、送った感謝の手紙は一通も届かなかった。平和を守るために、河井道は他の7人の牧師たちと共に鎌倉丸に乗り、大海の水のもれ口に立ち向かったのです。

1941年3月27日、春霞の海を渡りアメリカに向かった鎌倉丸。その船上には、船酔いに弱いながらも精神的に強い河井道がいました。出航して初めの3日間は苦しみ、しかし4日目からは活動を再開。研修会への参加、討論、祈りの時間を重ね、さらには手紙を書き送るなどして時間を過ごしました。

4月11日にサンフランシスコへ到着した彼女は、翌日にはロサンゼルスへ上陸。そこで彼女を待っていたのは、恵泉女学園の留学生部の卒業生たち。彼女が以前渡米したとき、1世の希望に応えて設立したこのコースでは、生徒たちは日本文化だけでなく、聖書の教えとキリスト教の信仰に基づいた教育を受けていました。全ての面でアメリカ人としての思考を持つ彼らが米国で活躍している姿に、河井道は大きな喜びを感じました。

1941年4月13日、イースターの日、ハリウッド・ホールの野外音楽堂で3万人の群衆と共に復活を祝い、ハレルヤを唱えました。その後ヨセミテ国立公園で一泊し、4月20日から25日まで会議に参加。2か月間、アメリカ各地で教会や公会堂などで講演を行い、時には一日に数回話すこともあり、ラジオ出演や大規模な講演会も行いました。

彼女の服装は和服で、英語の話し方は流暢で豊かな内容であったことから、「フレーミングスピリット」とアメリカで評されました。その講演は聴衆を引き付け、彼らを深く感動させました。彼女は時折、聖書の話を引用し、人々に語りかけた。一つには、石打ちの婦人の物語を引用し、道徳的なメッセージを伝えました。

道の講演終了後、多くの聴衆が彼女に接触し、感謝の意を表しました。一人の米国の女性は道の話を通じて、自分の偏見を認識し、アメリカの反省の必要性を理解しました。また、教会の婦人会からのコーサージ(花束)を道に手渡した別の女性は、道の祈りの言葉に深く感銘を受け、その後の戦争中も日本の教会の婦人たちのために祈り続けました。

7月末までに、道はアメリカ全土を旅し、多くの人々の心に和解と平和のメッセージを刻み込みました。その行動が日米の関係を修復するには至らなかったが、多くのアメリカ人に日本にも平和を求める人々が存在することを示す有力な証拠となりました。

戦争中、彼女は日本とアメリカの間で祈りを通じたつながりを保ち続け、アメリカから帰国した時には、そのメッセージを日本の教会の女性たちに伝えました。しかし、その帰国は憲兵の監視下で行われ、彼女は「平和」という言葉を公に言うことの危険性を警告されました。

2人の背広姿の男が.教会婦人でいっぱいの、京都のある教会の中にあらわれ.河井道の講演が終わるとすぐに.つかつかと壇に近づいてきました.

ようやく壇から降りようとする道を、

「河井道だね」

と、問いただしました.

「はい、河井道です」

背広の男たちは、ちらりと手帳を示しました。憲兵だったのです。

「ちょっと。出頭するのだ」

京都の教会で講演後、道は突然憲兵によって身柄を拘束され、京都憲兵隊司令部へ連行されました。道が同行を望んだ坂田とし子の参加は許されませんでした。彼女は陰気で風通しの悪い部屋に閉じ込められ、人々の声や足音が遠くから聞こえるだけで、誰も彼女に近づく気配はありませんでした。

この困難な状況でも、道は神への信仰を固く保ち、祈りを捧げ続けました。彼女の信念、つまり神の手が彼女を守り導いているという確信は、この経験を通じてさらに強まりました。彼女の人生と信仰の旅は、彼女の英語の自伝『マイランターン』で語られています。

その日の教会での集会について、道は後悔していませんでした。彼女はアメリカの現状と平和使節の体験を共有し、参加者たちはそれを聞きたがっていました。彼女の話は特に、アメリカの教会の女性たちが自分たちの過ちを認めたことについて感動を引き起こしました。そして彼女は、「祈りこそが大切だ」と強調し、「お互いのために祈り、真の平和が続くことを祈るべきだ」と述べました。

道が講演している最中に、主催者から私服の憲兵が聴衆の中にいるとの警告がありました。しかし、道は平和と信仰友の情報を共有することを止めませんでした。講演が終わった後、その2人の憲兵が彼女を連行しました。

道は、アメリカの婦人の話ができたことに感謝しました。彼女は憲兵隊の1室で長時間待たされ、夜になったときに取り調べを受けるよう指示されました。

取り調べでは、上級将校が道に対して厳しい質問をしました。彼女がイエス・キリストを主と呼び、大日本帝国とイエスの前に引き出された女性を比較し、諸外国を律法学者やユダヤ教の教師に見立てた理由を尋ねました。道は厳しい環境の中で、若い将校が威厳を保つよう努めていることに気づきました。

「はい、かしこまりました。できるだけくわしく書くようにいたしますが、時間がかかります。お忙しいのにお待たせすることになりますから、まず、お話を申し上げお答え申し上げることにいたしまして、それからあとで書くことにいたしましてはいかがでしょうか」

「よかろう」

これは同意を得ました。道は心して相手の立場に対して敬語をつかいながら丁寧に話をすすめました。

「貴様は、アメリカ人に対して。なんで。そんなに親しげなふうに話せるのだ?」

「なにか、かくしているのか。どんな意図があるのか。何か、とくになるのか」

「貴様は、公衆の面前で、わが大日本帝国皇軍に対して、人前で口にすべからざることを申したというではないか。皇軍が上海で残虐行為をしたというようなことは、皇軍の名誉をいちじるしく毀損する」

「その上、貴様はなぜキリスト教教育の不足が人格の低い人間をつくるというんだ?」

道はひとつひとつにたんねんに答えました。それにしても、武芸にすぐれているかもしれないけれど、なんとこの将校たちが、宗教にも、教養にも。国際感覚にも、知識も、情緒もとぼしいのでしょう、とあらためて相手を見ました。また童顔さえ感じられるこの青年将校たちー道は、日本の悲しむべき現実を見る気がします。いつのまにか。道はこの自分をじん問している青年将校たちが、何もキリスト教のことを知らない日曜学校の生徒で、自分がその年かさの教師ででもあるかのような気持ちになっていました。それこそ。「河井先生」流なのです。

ところが。不思議なことに、青年将校たちは、いつのまにか「うむ」「うむ」と道の話に聞き入っていました。そして。

「あす朝。7時、必ず出頭」

つまり、もう帰っていいのです。

「ご親切、ありがとうございます」

憲兵司令部を出て、暗い京の町を「神さま、あなたがまもってくださいました」と思わず讃美歌を口ずさむ心地で歩いて行きました。

道が覆いをした提灯を持ったデントンさんととし子さんに遭遇し、三人は大いに喜びました。道は憲兵が親切で、何も怖いことはなかったと伝え、彼らと一緒に明るく帰宅しました。翌朝、道は約束通り憲兵隊に行き、取り調べ結果はただの始末書で終わりました。予想外にも、道を連れて行った若い憲兵の一人が、彼女が一人だったときに訪問の意向をほのめかしました。道はそれに対してさりげなく歓迎の言葉を述べ、イエス・キリストの力がそこに感じられたと心打たれました。

道は1877年に伊勢で神官の家庭に生まれ、父親と共に神宮の杉木立で過ごす幸せな幼少期を送りました。しかしその平和な日々は長く続かず、家庭の経済的困難により10歳のときに北海道に移住。そこで苦難の日々を過ごすうちに内向的な性格になりました。しかし、道の生涯を変える出会いがありました。それはキリスト教の伝道師になっていた伯父との再会で、彼から聖書を手渡されたことでキリスト教との接触を持つようになりました。伯父の計らいで道はミッションスクールに入学しましたが、内向的な性格から学校生活に馴染めず、一度は退学。しかし、再度伯父の計らいでサラ・スミス女史と出会い、札幌で教育を受けることになりました。スミス女史の情熱的な教育の下、道は朗らかで奉仕心あふれる信仰深い人間に成長しました。

道は英語の授業でなかなか発言できず、教師のスミス先生は彼女に特別な席を設けました。1年間の努力の末、ついに道は堂々と英詩を読むことができ、自信を得ました。さらに、彼女は札幌農学校(現北海道大学)の教授たちから多岐にわたる教育を受け、特に新渡戸稲造博士から大きな影響を受けました。17歳で卒業後、小樽で新しい学校を開設するため、ミス・ローズを補佐し、寮母兼教師として働く厳しい1年間を過ごしました。

新渡戸博士の強い勧めで米国へ留学し、1904年にプリンマー女子大学を卒業。帰国後は津田英学塾で教え、日本YWCA創設に尽力し、初代総幹事になりました。その一方で、世界の平和や女性の向上にも力を注いでいました。また、経済的困難の中でも新渡戸博士の反対を押し切り、新しい学校、恵泉女学園を設立。その信念は「神やしないたもう」、つまり彼女が生涯を通じて得た最も確固たる信念だったのです。

1941年、戦時下の厳しい状況の中でも、恵泉女学園の道は生徒たちに対し逆境を乗り越えて前進し、更なる成長を達成することを訴えました。また、彼女は学校が困難な時期にあることを認識し、これを成長の機会と捉えました。「晴雨にかかわらず、大きな活動をしなければならない」と決意し、困難な時代に直面しても、それを感謝し励みとする力強い姿勢を示しました。

また、彼女は生徒に対し、日本に帰国することができない状況にある2世の若者たちを歓迎し、共に学び育つ仲間として受け入れるよう呼びかけました。この行為は、道が学びや教育を通じて様々な困難を乗り越える力を育むためのものであり、また社会の敵意を背負っている2世を守るという彼女の誠実な信念を示すものでした。これは彼女が「神から託された迷う小羊」を引き受けるという、彼女自身の信念を体現する行為だったのです。

1941年の秋、戦争の影が厚くなる中でも、恵泉女学園の道は学生たちに広い視野を持つこと、困難を共に担うことの大切さを説きました。また、社会的な統制が強まると差別が生じ、弱い者への配慮が忘れられがちになることを指摘しました。

その年の学園記念日、彼女は生徒たちと一緒に楽しむ時間を提供し、物資不足の厳しい時代にもかかわらず、明るさを持つことの重要性を示しました。また、混血で全盲の幼児、よし子ちゃんが学園を訪れた時、道は生徒全員に「よし子ちゃんを恵泉の養女にしましょうか」と提案しました。これは生徒たちが毎月献金し、その一部をよし子ちゃんの養育費にするというものでした。

生徒たちは一人一人が賛同し、喜びの声を上げました。そして、彼らの小さな献金活動は終戦後、よし子ちゃんが安全な手に渡るまで続きました。これは道の信念を象徴するものであり、彼女が最も尊いと考えていた人間の尊厳と共感を大切にすることを示すエピソードでした。

恵泉女学園の道は、自身が正しいと信じることを積極的に行動に移していました。彼女は、一見無関係に見える日常と国際間の複雑な問題とが、実は深く結びついていると理解していました。特に、日米間の対立が大きな関心を集める中で、中国人が人間扱いされないような風潮があった時期、道は中国人の苦しみを深く感じ、自分の心に大きな痛みとして刻み込んでいました。

戦争が近づいていると感じていても、彼女は常に「正しいことを追求し続ける」姿勢を貫いていました。また、学生たちには日々の礼拝で、「はかりなわは、わがためによき地におちたり。うべ、われはよきゆづりを得たるかな」という言葉を暗唱させ、自身の信念と規範を共有しました。この姿勢は、道がどんな状況下でも価値を見出し、前進し続ける姿勢を強調していたことを示しています。

昭和16年(1941年)12月8日、日米開戦のニュースが道に衝撃を与えました。ニュースは彼女を冷水で打たれたかのように感じさせ、その日一日中、同じニュースがラジオと新聞で繰り返されました。

道は日本人、そして日本そのものを深く愛していました。その愛情は、古い感傷だけでなく、真心からのものでした。「悔い改めのいらない人はいないのです」とよく言っていました。彼女は外国と外国人を理解し、それにより日本人の心をより一層愛し、積極的に愛したのです。

戦時下でも、卒業年度の生徒を修養会に連れて行き、心の鍛錬の重要性を強調しました。「神様は愛であると信じていただきたい。そして神様が愛であるなら、けっして、わたくしたちを苦しめないことを信じて。どんな苦難をも喜んで忍び、毎日が修養会であり、戦場であると覚悟して進みたいものです」と、強い信仰と神中心の生き方を強調しました。

戦争が起ころうと、何が起ころうと、道は一貫して「唯一の道 – The Way」を探求し続けました。その道は、まっすぐで、勇ましく、全力で進むことを求めていました。それが彼女の定義した「生きること」でした。

真珠湾の戦果に世間が誇りを感じ、南方に戦線を広げる日本人が勝ち戦に酔っていた一方で、冷静に事態を見る力を失った人々は、この戦争が正義の象徴のようにさえ感じられていました。しかし、道は毎日の礼拝で「日本の為政者を導いてください。彼らに、正義と愛と真の判断力を与えてください」と真剣に祈り、その言葉は切実さと悲痛さをもっていました。謙虚な道は、この高慢な風潮を痛感し、報道が国の管制下にあり、第二次鎖国のような状況でも、国と人々の悲哀を心の内から憂慮していました。

開戦直後の恵泉誌に掲載された「クリスマスのばら」という記事では、道は「太平洋での戦争が12月に起こったことに対し、平和の象徴であるクリスマスが同月であることに深い悲しみを覚える」と述べました。だが、道は悲嘆に暮れるだけでなく、「クリスマスの歴史やクリスマスにまつわるエピソードを引用して、戦争の中でも希望を見出す」姿勢を示しました。この記事では、感情がどんなに沈んでもそれを乗り越える姿が描かれていました。

記事にはまた、「戦地から帰還した人が恐ろしい戦場の光景を語り、その話を聞いた老人が悲惨な感情を花で癒そうとしたエピソード」も含まれていました。このエピソードは、「クリスマスは、怖さや恐怖、恥ずかしさを消すために顔を埋めるバラの花束のようなものだ」という比喩として用いられていました。

しかしながら、この恵泉誌は憲兵隊の注意を引き、道の行動が厳しく監視されるようになりました。それ以降、朝の礼拝には私服の憲兵が出現し、生徒たちはそれを知らないままでいました。

「河井先生」こと道は、朝の礼拝で生徒たちを温かく見守り、信仰、祈り、希望に満ちた態度を貫いていました。その後ろで、彼の行動を監視する私服の憲兵も確かにいましたが、信念は揺るがず、頻繁に讃美歌を歌い続けました。

讃美歌445番はよく、古い講堂にひびきわたりました。

御神とともにすすめ、

死もなやみもおそれず

ただ御難をはげみて。

ゆけや、ゆけ。

道は、肩をゆらして、

「ゆけや。ゆけ」

と、リズムいっぱい。うたいました。

ついに道は、東京憲兵隊に呼ばれました。

「1億総出で、この聖戦をすすめている最中に平和をとなえ、聖戦非難をするとはなにごとだ」

と。

しかし、その姿勢が問題となり、東京憲兵隊に呼び出され、「聖戦非難」とされました。更に警察に呼ばれ、教育局にまで召喚され、彼の平和主義的な教えが反戦思想として批判されました。「恵泉誌」の全提出と監視、さらに学校停止の脅しも受けました。

しかし、道は礼拝の続行、聖書の教え、そして外国人との通信の注意を約束しました。彼は毎日来る憲兵にも微笑みながら話しかける姿勢を崩しませんでした。そして奇跡的に、彼を何度も訪れていた憲兵が突然来なくなったのです。

その年のクリスマス・イヴは、戦争の最中であっても、米国や他の地域との交わりを強く思う静かな夜でした。英米語が禁止され、スポーツの名称までもが変更されるなど、互いに監視する厳しい時代でしたが、道は迷っている人を探し、信じることを行動に移すことを続けました。

戦争が厳しくなり、空襲の心配や物資の減少が進む中で、道は友人から贈られる砂糖や粉を大切に保存しました。そして、仕事が終わると、自分でこれらの物資を持ち、幽閉されている宣教師の老夫妻に届けていました。誰にも疑われないように、他の人を連れずに静かに出かけていったのです。

道は、タッピング夫妻が静かに住み、日本人を愛し続ける姿を見舞いました。これは敗戦まで続いた行為で、道が一人で暗闇の道を歩きながらどれほど聖句を唱えたかはわかりません。

「年少きものもつかれてうみ

壮んなるものも衰へおとろふ

然はあれどエホバを侯望むものは新なる

力をえん、また鷲のごとく翼をはりての

ぼらん、走れどもつかれず歩めども倦ま

ざるべし」 (イザヤ書40・30~31)

当時の新聞や雑誌は、戦争を推進し肯定する内容しか掲載せず、戦争で失明した兵士の配偶者となる女性が美談とされていました。しかし、道が訓盲院を訪問したとき、院長から「訓盲院には信仰心が強く、将来性のある青年がいて、彼に賢明な配偶者が必要だ」という話を聞き、感動しました。これは一般的な賞賛からは逸脱していましたが、彼女はそうした見識が真に偉大であり、そのような結婚を選ぶ人々を称賛しました。

当時は身体障害者が差別される時代でしたが、道は本当に大切で必要なものを見失うことはありませんでした。学園は一見平穏でしたが、多くの問題を抱えていました。それでも、聖書の学習の重要性は学園の中で強く認識されており、毎日の礼拝も戦前と変わらず続けられていました。その年のクリスマスには、多くの生徒が受洗し、彼らの喜びは大きかった。

戦時中でキリスト教が禁じられていたにも関わらず、神の奇跡が示されたと記しています。そして、毎朝最初に起きた道は窓を全開にし、冷気を通しながら聖書を読み、祈り、新しい日を始めていました。その信仰と勇気で彼女は新しい日を迎えていました。

昭和18年(1943年)、日本は戦争の窮地に立たされていました。この年に始まった「羊の年」に、道は「互いに羊として猛獣を統御しよう」の言葉で年頭を迎えました。戦争の状況は深刻で、恵泉の教師たちも戦場へ出征する者が現れ始め、多くの島が陥落しました。学生たちは戦闘に参加するよう命じられ、1943年12月1日には学徒出陣壮行会が開かれました。

首相の戦争に献身するようなスピーチに続いて、学生代表は「我々は国の盾となる覚悟だ」と宣言しました。この時、道は激しい怒りと悲しみに揺れ動き、その後生徒たちを集めて特別礼拝を行いました。道は通常、涙を見せない人でしたが、その日は特に沈んだ声で語り、大切な学生たちを戦場へ送る悲しみを表現しました。

昭和18年(1943年)、道は出征する学生たちに対して感情的な祈りを捧げました。もし戦場へ行くことが神の意志であるなら、その犠牲が真の平和を生み出すことを願い、若者たちの清らかな心と身を捧げる姿勢を称えました。また、それらの若者が生き生きと、なげやりにならず、最後まで自分自身を尊重して生活することを祈りました。

道は、今日出征するすべての人々の命が無駄に失われることのないように、そして出征が本当の平和への道であることを願いました。この暗い時代にこそ、イエス・キリストが私たちを見ていると信じ、その存在をしっかり見つめなければならないと強調しました。

壮行する学生たち、その親、兄弟、そして恵泉の生徒たち全員に、イエス・キリストの愛がいつまでもあることを祈りました。この日は深い悲しみに包まれ、生徒たちはお互いを慰めながら、兄弟たちを戦場へ送り出しました。

昭和19年(1944年)1月に全国民と学生を工場労働に動員する政令が出され、中学3年生からは年間の3分の1しか学習時間が確保できなくなりました。この困難な状況でも学力低下を防ぐことを望んでいた教師たちは、危機を通じて相互支援と忍耐を促し、人々に精神的な安定を与えようとしました。最終的には学生たちは工場に動員され、教師たちは彼らに忠誠心と奉仕の精神を持つように勧めました。学生たちは工場への初日から毎日、始業30分前に礼拝を行い、その規律を守りました。一部の工場では礼拝の場所がなく、寒さの中で讃美歌を歌いましたが、日々の繰り返しにより、その風景が次第に工場の日常となりました。

戦時中に工場で働くこととなった恵泉の生徒たちは、他の労働者からキリスト教徒であることを問われました。彼らは誇りを持って働き、信仰を胸に、朝礼拝を欠かさない姿勢を見せました。教育の基盤となる信仰は、富も貧困も分け隔てなく、彼らの行動を導きました。始業以外の時間に集まり礼拝を行うという合意が工場主との間で取り決められ、時間が経つにつれて、他の人々も讃美歌を共に歌うようになりました。

一方、教育局からの要請により、礼拝を止めることを勧められた道は断固としてこれを拒否し、礼拝を止めるくらいなら学校を止めると語りました。彼女の強い信仰と決意は、譲らない姿勢として示され、学園でも工場でも、神への礼拝が日々続けられたという事実を強調します。

日本の空をB29の爆音が埋め尽くす中、恵泉の新たな農芸専門学校のビジョンが道の心に生まれました。それは人智を超えた聖霊の導きでした。彼女は科学的知識を持ち、人々を指導できる男子と同じ専門教育が必要だと感じ、農芸科コースを開始しました。それは日本、またアジアでも初めての試みでした。

しかし、これを実現するためには30万円が必要で、新事業を立ち上げたり公募による募金をしたりすることは当時の政治状況下では禁止されていました。それでも道は祈り、忍耐し、努力を重ねました。友人、知人、卒業生、さらには現役の生徒までもが初穂を奉納し、「農芸科のために」と毎日のように捧げました。

道自身も北から南へ、空襲の下をくぐり抜け、列車に乗って資金を集めるために奔走しました。そして、必要な額は期限までにちゃんと集まりました。しかし、それだけでは足りず、理解されないことを理解させるために、道は度々文部省に足を運びました。

「わたくしたちは。最善をつくすのみです。あとは。神さまにおまかせし、神さまにみこころのようにしていただくのですから、ほんとうに安心なのです」

いよいよ審議される段になりました。恵泉のようなこれからの学校には不利であろうと思いつつ、祈りながら道は、出向き、一生懸命説明しました。

しかし、4月開講をめざすのに1月になっても音沙汰なしです。とうとう道は、また。文部省に行き文部次官に会見を申し入れましたが。会えず、帰路は空襲に出あうという調子。

青山あたりの扱にはいって待避をしながら、道は考えます。

「わたしの戦争は、認可を得るか否かなのだから、なまやさしいことではない。時を得るも得ざるも認可の勝利に向かって前進できるというのも、背後で多くの祈りで支えられているからなのです」

2日後、文部省専門教育局監理課から実地調査の通知がありました。環境は厳しく、雨が降らず砂埃が立ち、病気や疎開で生徒も少なく、農具も貧弱でした。しかし、道は善導されることを信じ、真実を語る覚悟を決めました。山口美智子を中心に、最大限の準備を進め、結果的に成功しました。

しかし、文部省から再び呼ばれ、「キリスト教の信仰により」の一句が問題だと指摘されました。道は神の試練であると理解し、キリスト教の精神が恵泉の教育の基盤であると強く主張し、その一句を残すことを求めました。

係官はじっと道を見つめていましたが、何を思ったのか、同僚2人と額を合わせて相談し始めました。どうなることか、数分が何時間にも感じられます。すると、3人で何か書き始めました。

そして。やがて道に向かって、

「どうでしょう、河井さん。この文章をこう変えては?」

そこには、「恵泉女学園農芸専門学校は、キリスト教精神により……」と書いてありました。

バンザーイ、と道は心の中で叫びました。これこそ奇跡です。かつて、憲兵隊が道のことばに聞き入ったように、これはまた、思いもかけない転換ではありませんか。

「これは、たいへん結構です。前の文章よりもずっとよいくらいです」

「じゃあ、これで許可の申請を出しましょう」

「河井さん、よくがんばりましたね」

これが。初め道をうさんくさそうに見ていた係官だろうか、と驚くばかりです。

それから数日後。3月3日。正式認可がおり、恵泉女学園農芸専門学校が生まれました。

厳格だった係官から祝福の言葉を受け取った河井さんは、東京大空襲の数日前、誤解が多い中で新たなキリスト教精神に基づく学校を立ち上げました。「朝日新聞」の一面には、この恵泉女学園農芸専門学校の学生募集広告が掲載され、感激のあまり河井さんの眼鏡が曇りそうでした。

新学期、他の学校が工場動員で事実上閉鎖されている中、農芸科だけが男子の農芸関係の大学と同じく特例で開講を許されました。開校礼拝は、9名の生徒で始まった当初と同じ感謝と感動があり、今度は44人もの生徒がいました。

河井さんの霊感によって立ち上げられたこの農芸専門学校は、戦後の混乱した時期に、食糧と花を供給し、日本の復興に大いに貢献しました。

去るまで学校を離れないと誓いました。敗戦数ヶ月前に下級生は集団疎開し、道は残った生徒、先生、工場動員に出ている生徒たちと共に、週に一度、学校に戻って聖書を研究し、集中的に勉強しました。彼女は永遠の生命、永生を語り合い、学生たちに対して、厳しい時期でも霊の平和を保ち、強く生き抜く覚悟を持つことを教えました。

しかし、近所に落ちた爆弾の爆風で学生が亡くなった時、道の悲しみは深く、それは言葉にできないほどの傷となりました。それでも彼女は、戦災で被害を受けた人々を助け、病人を見舞い、宿に困る人を泊め、悲しむ者をなぐさめ、勇気と生きる希望を見いださせ、ともに祈る毎日を過ごしました。

また、交通状況が厳しく道が不自由であろうとも、日曜日には必ず飯田橋の富士見町教会に出席しました。さらに、NHKから「日本の声」という海外向けの短波放送に出るよう依頼がありました。

鎖国のような日本から.道の英語のメッセージは.戦いの太平洋をこえて.アメリカに届きました.道のアメリカの友人が、これを聞いて.ミチーカワイ健在を喜んだということです.その中で道は恵泉の学園の様子や、農芸科ができたことも語ったのですが、検閲をもおそれず最後に、

「空襲のサイレンの一方に、小鳥も星も春の花も、永遠の秩序と生命と、おおよそ善なるもの美なるもの真なるものの、最後の勝利をあかししています.これこそ、全人類の創造主の、愛のみ心の表現なのです」

とむすびました。

ここにもはっきりあらわれているように、道に一貫しているものは、神の秩序と摂理への絶対服従でした。そして、それを妨げるものへの自然で不屈の抵抗です。周囲がどんなに騒がしくても、「時を得ても、得なくても」弱い小羊をさがし出し隣人になる愛にあふれた道を、ひたすらにつきすすんだのです。

「天地は失せん。されど、わが言葉は失せじ」

「最後までたえしのぶものは。すくわれん」

1945年8月15日、終戦の日が到来し、道は涙にくれながら平和を迎えました。敗戦の混乱に困惑する日本全体に対して、道は悔い改め、主イエス・キリストによる和解、そして神を中心に置いた日本の再建に向けた確固たる使命感を持って出発しました。「本当に、これからは命がけでやりましょう」と道は言いました。

道は、全能の主を見上げ、イエス・キリストに従い、祈りながら一本の道を進みました。戦前、戦中、戦後を通じて、彼女は一切ぶれることなく進み続け、1953年2月11日、75歳で亡くなるまでその道を歩み続けました。