1929年アメリカに生まれる。黒人牧師として非暴力主義によって黒人に対する差別撤廃に情力的に活励。1964年ノーべル平和賞受賞。1968年暗殺される。

1955年12月5日の朝、アラバマ州モントゴメリー市で、人種差別に抗議する黒人たちが一斉にバスボイコットを実施する予定でした。このボイコットを提案し、準備に尽力していたマーティン・ルーサー・キング牧師は、その歴史的瞬間を目の当たりにするために早起きし、自宅前で始発バスの通過を待っていました。これまでに同様の計画が失敗に終わったことから、不安と期待が交錯する心情の中で待つキング牧師の耳に、妻コレッタの声が響きました。彼が居間に駆け込むと、普段は黒人労働者で混雑する始発バスが空っぽであることに驚きました。続く2台のバスも同様で、ボイコットが実行されていることを確認しました。

1955年12月5日、アラバマ州モントゴメリー市で行われた人種差別に対するバスボイコットは、予想を遥かに超える100%の成功を遂げました。キング牧師は、この奇跡的な成功を目の当たりにし、黒人社会が人種平等への大きな一歩を踏み出したと感じました。バスを使わない黒人労働者たちは様々な手段で職場に向かい、その努力は1年以上にわたり、全天候に耐えました。このボイコットは、当時まだ社会的な変革に対する認識が低かった南部の黒人14百万人に新たな力と勇気を与え、以後、南部各地でバスボイコットが起こる契機となりました。さらに翌1956年にはリトル・ロック事件が起こり、黒人学生が白人の学校で教育を受ける道が開かれました。これらの勇気ある行動は、不屈の精神と変革への確固とした信念を示しています。

1960年には、南部100以上の町で黒人大学生による座り込み運動が展開され、公共施設での人種差別撤廃運動が急速に広がりました。この運動は北部へも広がり、経済的政治的機構に根ざした人種差別を揺さぶる全国的な運動へと発展しました。これら一連の歴史的流れの中で、モントゴメリーのバスボイコットの成功は、導火線の役割を果たしました。

以前にも人種差別に対する抵抗は存在しましたが、それらは多くの場合、地方的な出来事に留まり、大規模な運動へと発展することはありませんでした。しかし、モントゴメリーのバスボイコットはなぜ全国的な黒人解放運動への導火線となることができたのでしょうか。

その答えは、「非暴力」の哲学と戦術がバスボイコット中に新たに生まれ、それが後の黒人解放運動の特徴となったことにあります。この新しい抵抗方式が1955-56年のモントゴメリーで大きな変化を引き起こし、全国的な運動へとつながる大きなきっかけとなったのです。

バスボイコットはモントゴメリーで確かに発生したでしょうが、キング牧師の「非暴力」抵抗の指導なしにはその勝利は得られなかったと思われます。南部の人種差別は法律と制度で強固に守られており、非暴力抵抗以外の方法ではこれに挑むことは難しかったのです。

キング牧師がどのようにインドのマハトマ・ガンジーの非暴力運動をアメリカに移植したかについては、彼の人物像を通じて理解することが重要です。黒人であるキング牧師の中で、ガンジーの非暴力哲学はキリスト教とどのように結びつき、また彼の性格や思考方式を通じてどのように受け入れられたのかが重要な視点となります。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、1929年に黒人牧師の家庭で生まれ、その成育環境は物質的、精神的に恵まれていた。出身地であるアトランタは南部の経済的・政治的中心で、黒人社会は他地域と比較し高い水準にあり、6つの大学も存在していた。

黒人社会の一部は肉体労働や家政婦等、差別的な職に就いていたが、それとは反対に黒人ビジネスマンが商店や銀行、保険会社を経営しているなど、独自のビジネス体制が存在しており、アトランタの黒人企業の数は全米一でした。

また、経済的に白人社会から独立した知識人も多く存在し、黒人大学の教職員や教師、医師、弁護士、社会事業家、カウンセラー、牧師などがその中に含まれていました。彼らは白人の中産階級と同じ経済状態にあり、黒人社会内で特権的な存在であり、アトランタの黒人社会は、この伝統的なリーダーシップを中心に多様でありながらも団結性の高い社会を形成していました。

牧師は黒人社会において多方面の問題解決の相談役であり、指導者でもあります。教会は宗教的な集合場所だけでなく、経済的援助、社交、教育、政治教育の場でもあり、牧師は家庭でも経済的、精神的な堅実な父親として立派にその役割を果たしています。

一方、差別により職と収入が保証されない一般の黒人家庭では、家計を支える母親が主となり、失業や収入不足の父親は家庭内での地位を失い、酒に溺れるか、家を出ることが多く、母子家庭が増えています。父親の存在が希薄で、息子は未来を見据える役割を持つ父親の姿を欠き、母親は息子に忍従の術を教えなければならず、その生活環境は極めて厳しいものです。

社会的な人種差別は黒人の家庭を破壊し、不信、絶望的な憎しみ、閉鎖性、劣等感、自己嫌悪などの感情を育み、これが黒人の思考と行動を形成しています。これらの感情は怒りとなり、しばしば急進主義の思想や行動につながり、力への欲求を生じさせます。

キング牧師は、牧師の子として恵まれた家庭環境で、愛情深く育てられた幸福な少年時代を過ごしました。当時のアメリカが不況で黒人の多くが職を失っていたにも関わらず、その影響はキング牧師の家庭には及びませんでした。

しかし、人種差別という現実からは逃れられず、キング牧師が初めてそれを体験したのは小学校に入学した時でした。幼なじみの白人の双子は、別の学校に通い始め、その家族からは「もう一緒に遊べない」と遠ざけられました。この経験に困惑したキング牧師は母親に理由を問いました。

裕福な環境で育ち、人種差別の害悪から遠ざかったキング牧師の母は、彼に自分たちの祖先がどのように奴隷として扱われ、どのように人種隔離政策によって生活が制限されているかを説明しました。しかし、彼の質問に対する母の答えが新たな疑問を生み、「なぜ黒いことがいけないのか」という疑念を残しました。困惑した母は最終的に、「おまえは、誰にも劣らない良い子なのだよ」と彼を慰めました。

マーティン・ルーサー・キング牧師の父は、アーバン・アベニューのエペニザー・バプテスト教会の牧師で、貧しい農村の小作人として生まれ、人種差別の悪しき現実を体験し、その反抗の気持ちを保ち続けました。彼の恐れを知らない正直さと力強い正義感は、幼いキング牧師に深い影響を与えました。

特に印象深いエピソードとして、父親が連れて行った靴屋での体験があります。2人が店内の空席に座ったところ、白人の店員が人種差別の法律に基づき、後方の席に移るよう指示しました。しかし父は拒否し、自分が座って靴を買うつもりであると反論しました。この体験は、キング牧師にとって初めて見る父の怒りであり、人種差別への彼の反抗の姿を見ることとなりました。

また、父親が警官に「小僧」と言われたとき、彼が息子を指差し「これがボーイだ。私は大人だ。キング牧師だ」と反論したエピソードも記憶に新しいものでした。このような挑戦的な言動は通常は黒人の命を危険にさらす行為であったが、父親は幅広く尊敬される教会の牧師であったため、白人から危害を加えられることはなかった。これは、人種的対立が激しい社会でのキング牧師一家にとって、まさに奇跡に近い出来事でした。

キング牧師は、人種差別に直面した父親の影響を受け、黒人解放のために自身を捧げる道を選びました。しかし、彼が人種差別に対して強烈な怒りを感じながらも、白人への信頼と愛情を保つ姿勢は特筆すべきです。彼は差別的な行為を厳しく非難しながらも、それが引き起こされる背後の「病んだ魂」を理解しようと努め、非暴力の哲学に惹かれる原動力となりました。

彼のこの姿勢は、家庭と教会内での温かな環境によって形成されたと考えられます。毎日の生活の中で彼が出会う家族や友人たちは、信仰と愛と善意に溢れており、それが彼に「敵をも愛せる」というキリストの教えを深く理解させ、人間の善意を信じる姿勢を養わせました。

彼の大学生活もまた、信念と自信を育てる重要な環境でした。モアハウス大学は経済的に白人支配から独立しており、自由な学問の環境を提供していました。学生と教職員は自由に社会体制を批判し、自身の意見を表現できました。さらに、黒人急進派や全米有色人種地位向上協会(NAACP)のような、学外では危険視される思想や活動も積極的に行われていました。これらの経験は、キング牧師の自信を深め、彼の信仰と活動への道をさらに強固なものにしました。

ング牧師は、大学連合協議会の活動を通じて白人との交際を持つ機会を得て、白人の中にも黒人の同盟者がいることを認識しました。これにより、彼の白人への怒りが和らぎ、協力の意志が生まれました。また、彼は白人と共に働く経験を通じて、人間の感じ方や考え方には人種間に大きな違いがないことを確認しました。ただし、同じ仕事をしても黒人の給料が白人の半分しかないという事実も目の当たりにしました。

その経験から、キング牧師は事実を直視し、白人を全体として敵視するのではなく、共通性を探し、白人の心にある差別の壁を溶かすような積極的な姿勢を身につけました。これらの経験から自信を得た彼は、大学に戻ると人種と経済の不平等について学び始めました。

次の夏休みに、コネチカットのタバコ畑での仕事を通じて、明らかな人種差別が存在しないアメリカの地域があることを発見し、その経験が彼の進路を決定づけました。彼は医師、弁護士、教師など、様々な職業を検討しましたが、最終的に牧師になることを選び、大学卒業後に神学と哲学を学ぶために北部へ行く決意をしました。1948年にクロウザー神学校に入学したキング牧師は、少数の黒人学生の1人として、人種の壁を超えて勉強に励みました。

キング牧師は、クロウザー神学校とボストン大学での5年間の勉学を経て、キリストの愛の教えの限界について深い疑問を持っていました。彼は正しい目的のためならばどんな手段でも許されるという考えに反対し、目的達成には正しい、神と道徳に沿った手段が必要と信じていました。しかし、キリストの愛の教えが人種差別という社会悪を排除する手段として有効であるとは思えませんでした。個々の対立解決には有効な教えも、人種間、階級間、国家間の対立の場面では無力に思え、さらに強力で現実的な方法を求めていました。

その探求の過程で、キング牧師は多くの社会哲学の書籍を読みました。プラトン、アリストテレス、ルソー、ホッブス、ベンサム、ミル、ロックからカール・マルクスの著作、そして平和主義者A.J.マスト博士の思想にまで心を動かされました。しかし、彼が抱いていた手段に関する問題については、満足のいく答えを見つけられずに、クロウザー神学校の第3学年を迎えました。

1949年クリスマス日、インドで開催された世界平和主義者会議が、キング牧師の運命を決定付けることになりました。モーディ・W・ジョソソン博士、モアハウス大学の大先輩であり、当時ハワード大学の学長であった人物がアメリカ代表として参加していました。ジョソソン博士はガンジーの非暴力運動に感銘を受け、その後1か月インドを視察して帰国しました。

ある日、ジョソソン博士のガンジーに関する深遠な講演を聴いたキング牧師は、強烈な感動を覚え、ガンジーについての本を何冊も購入しました。キング牧師はガンジーの非暴力的抵抗の闘い、特に塩のための海への行進や断食に深く魅了され、サティアグラハ(真理や愛の力)という概念が彼にとって非常に意味深いものであったと述べています。

ガンジーの愛は社会変革の強力な道具であり、キング牧師は自身がキリストの愛の教えについて誤った解釈をしていたことを認識しました。

キング牧師はガンジーを「個人と個人の交互作用を超えて、大規模な、強力で有効な社会的力にまで引き上げた、歴史上最初の人物」と評価しました。彼はガンジーの愛と非暴力の中に、長年追求してきた社会の悪を排除する適切で有効な手段を見つけ、ガンジーの非暴力抵抗を「抑圧された人々の自由の闘いにおいて、唯一道徳的かつ実際的に健全な方法」と認識するようになりました。

1953年8月、北部での5年間の勉強を終えたキング牧師は、キリストの愛の教えとガンジーの非暴力抵抗についての確信を胸に持っていました。博士論文の作成に1年を費やした後、彼は妻のコレッタとともに、次の年の9月に南部に戻り、モントゴメリーのデクスター街のバプテスト教会の専任牧師となりました。

キング牧師と彼の妻コレッタが南部への帰還を決断するのは容易ではありませんでした。北部にとどまることで彼らの機会は広がるでしょう。コレッタは音楽の勉強を続けることができ、キング牧師は優秀な成績のおかげで大学教授になる道が開かれていました。彼はまた、北部の二つの教会から招待の手紙も受け取っていました。

南部へ帰ることは、彼らが自由に学べる北部の生活を捨てることを意味していました。しかし、数日間の検討と祈りの後、彼らは自分たちが北部で高等教育を受けられる特権を持つ黒人として、南部に帰り、同胞の解放のために奉仕する道徳的義務があると結論付けました。

南部は彼らにとって故郷であり、人種不平等が存在するにもかかわらず、その地には驚くべき可能性がありました。彼らは南部が人種差別から解放されれば、アメリカでも最も美しい豊かな地になるだろうと信じていました。

彼らがモントゴメリーに向かう時、その地で間もなく巻き起こることになる、南部全体を揺るがす黒人運動の導火線的事件に巻き込まれることになるとは想像もしていませんでした。その事件では、大学での非暴力抵抗についての理論的な研究が、意図せずして実践のための手引きになることになりました。

モントゴメリーはアラバマ州中央に位置し、美しい州議会議事堂が立つ町です。1861年に南部11州がアメリカ合衆国から分離し、連邦を結成した場所として知られています。しかし、この美しい議事堂は、白人主導の政治を象徴しています。1954年までに黒人の選挙権は剥奪され、3分の1の人口を占める黒人が投票できるのは、投票年齢に達した黒人の10分の1だけでした。

モントゴメリーの12万人の人口のうち、5万人以上が黒人です。しかし、黒人の平均所得は白人の半分以下であり、黒人の多くは家政婦や肉体労働者として働いています。また、市バスの70%の乗客が黒人でありながら、運転手には採用されません。

黒人のバス乗客は差別に耐えなければならず、乗車口や座席に制限があります。黒人はバスの後部からしか乗れず、運賃を前部で払った後に後部へ回らなければならないのです。また、前から4列の座席は白人専用であり、白人が多くて座席に座れない場合、黒人は運転手の命令に従って座席を譲らなければならず、譲らなければ逮捕されます。これらの差別は、黒人が働き終えた後の疲れた時に特に苦痛であり、自分の座席を他人に譲ることは容易ではありません。

デクスター・パプテスト教会の専任牧師となったキング牧師は、モントゴメリーの残酷な人種差別に衝撃を受けつつ、黒人社会の改革が必要な三つの欠点を指摘します。それは、黒人指導者間の結束の欠如、教養ある人々の無関心さ、そして大多数の黒人の消極的な態度です。黒人たちは、白人経済への依存と自身の劣等感からくる恐怖のため、人種差別に対して抗議せず、静かに受け入れています。

しかし、1954年は公立学校の人種隔離が憲法違反とされた判決が出た年であり、これが南部の白人と黒人に大きな影響を及ぼしました。白人は反対し、暴力団の活動が活発化し、新たな組織が形成され、人種差別を維持する体制が整備されました。一方、黒人にとっては、この判決は大きな励みとなり、白人支配の時代が終わりつつあるという確信を強めました。黒人の不満はまだ表面化していませんでしたが、地下では膨らみつつありました。

キング牧師が赴任した時期に、黒人女性や子供が公共バスでの座席譲渡を拒否し、不当な扱いを受ける事件が増えていました。市民委員会は改善を求めて抗議しましたが、効果は見られませんでした。一方、黒人社会内ではバスボイコットの要求が高まりつつありました。

1955年12月1日、ローザ・パークス夫人がバス内での席譲渡を拒否し、逮捕されるという歴史的な出来事が起こりました。これにより、モントゴメリーでは人種暴動の危機が迫り、黒人社会は強い興奮に包まれました。この危機に対抗するため、牧師たちは黒人市民を説得し、暴力に対する代替手段を提案する必要があった。これは、指導者層の結束、教育を受けた黒人の奮起、教育を受けていない黒人の積極的な抵抗を促し、キング牧師が懸念していた黒人社会の欠陥を改善しました。この結果、12月5日には、キング牧師の監視下で全面的なバスボイコットが始まりました。

バスボイコットの初日が成功した日の夕方、ホルト・ストリート・バプティスト教会で大集会が開かれ、数千人の黒人市民が参加しました。キング牧師は、この集会でスピーチをすることになっていましたが、その準備時間はわずか20分でした。その日、彼はバスボイコットの準備と新たな組織であるモントゴメリー改良協会(MIA)の設立に大忙しだったため、通常15時間かける説教の準備を行う時間がありませんでした。さらに、MIAの会長に選ばれ、抗議運動の方向を決定する重大なスピーチをしなければならなくなりました。

彼のスピーチは、人々を積極的な行動へと駆り立て、しかし無軌道な行為には走らせず、キリスト者にふさわしい限界内に留める必要がありました。それは黒人市民を勇気づけ、抗議する一方で愛を失わない、苦悩と希望に満ちたメッセージでなければなりませんでした。同時に、白人社会へ向けては、共により良い社会を創るための寛容と責任感を持つ黒人の姿を描き出すべきだったのです。彼の任務は、 seemingly irreconcilable elementsを結びつける冒険でした。

キング牧師は、多くの聴衆とテレビカメラの前で立ち上がり、ローザ・パークス夫人とバスボイコットについて語った後、重要な訴えを行いました。「私たちはこれ以上の耐え忍びはできず、自由と正義以外のものには耐えられない」と述べ、抗議の必要性を強調しました。

彼は、民主主義の本質が抗議する権利にあると主張し、白人市民会議やK.K.K団のような団体が不正を永続化するために抗議するのとは対照的に、彼らが社会正義を目指して抗議することを明らかにしました。そして、彼らの抗議は暴力や無法を否定し、説得とキリスト教の原理に従って行動することを強調しました。

彼は「愛こそ行動の基準」であると述べ、キリストの言葉「汝の敵を愛せ、汝を陥れる者を祝福せよ、汝を虐げる者のために祈れ」を引用し、抗議が歴史の舞台で無意味なドラマに終わらず、愛と尊重を基にしたものでなければならないと述べました。無論、どれほど不公平な扱いを受けても、恨みや憎しみを抱かずに行動することを強く勧めました。

キング牧師は結びの言葉を述べました。

「勇気と品位とキリストの愛をもって抗議するなら、将来の歴史家は、歴史の編纂にあたって、しばらくここに筆をとめ”かつて文明の動脈に新しい憲味と品位とを注入した偉大なる人民、すなわち黒人たちが存在していた″と言うにちがいありません。これこそ、われわれが受けて立つに値する挑戦であり、すべてに優先する責任なのであります」

人々は総立ちになり、熱狂的な拍手と歓声は教会の内外にこだましました。キング牧師は席に着き、このスピーチが何の準備もなしに行なわれたのに。いままでのどの説教よりも大きい反響を起こしたことに驚きました。

キング牧師は、年配の牧師から受けた「神が話すためにはただ口を開けばいい」という励ましを思い出し、その真意に気づいたと述べました。彼のスピーチ後、教会は神の祝福を伝えるような鳴りやまない拍手で包まれました。

次に、ラルフ・アバナシー牧師が立ち上がり、バス乗車を再開するための3つの条件を含む決議を読み上げました。1つ目は、バス運転手が黒人乗客に対して礼儀正しい態度を持つこと、2つ目は、座席が乗車順に与えられること、そして3つ目は、黒人地区を通るバスの運転手に黒人を採用することでした。この決議は全会一致で可決されました。

黒人社会は一体となり、約2万人の黒人労働者を朝夕輸送する課題に取り組みました。最初の数日間は、210台のタクシーがバス運賃と同じ10セントで動員されましたが、5日目に警察部長が最低料金を45セントにするよう法律で規定し、タクシー会社がこれを守らない場合は法的に取り締まると警告したため、その方法は使えなくなりました。

代替手段として、自家用車の提供が求められ、キング牧師は輸送委員会を設立し、市の地図を広げて車のルートを計画しました。提供される車の数は150台から300台に増え、牧師だけでなく主婦、教師、実業家、未熟練労働者が運転に参加しました。さらに、全国の教会から15台のステーションワゴンが寄付され、「動く教会」と名付けられました。

バス会社とモントゴメリー市当局は、ボイコットは数日で失敗すると予想していましたが、黒人乗客は雨の日も風の日もバスを利用せず、市当局との交渉が決裂しました。その後、市当局はデマを流すなどの強硬手段をとり、黒人指導者や自家用車の運転者を厳しく取り締まり始めました。それにもかかわらず、黒人社会の抵抗精神は高まり、歩くことは彼らの象徴的な行動となりました。

キング牧師は改良協会の会長であり、抗議運動の象徴的存在でしたが、それ故に反対者からターゲットにされていました。彼は明らかに尾行され、さらに交通違反の名目で投獄されました。脅迫の手紙や電話は日に数十通に上り、彼の神経を消耗させました。最初は軽視していましたが、やがて電話脅迫が真剣であることを認識せざるを得なくなりました。さらに彼に対する暗殺の計画が存在するという警告が信頼できる情報源からも頻繁に伝えられました。

彼は、万が一の事態に備えて非暴力的な抗議を続けるようにと、公の場で指示を出すまでに至りました。彼の家庭である妻コレッタと新生児のヨキに対する潜在的な脅威により、彼は不安を感じました。そしてある晩、キング牧師は働き過ぎて寝入ったところを、怒りに満ちた無気味な声の電話で起こされました。

「いいか、黒ん坊。今週中にもおまえはモントゴメリーヘ来たことを後悔するようになるだろうぜ。万事手はずはととのっているんだからな」

人間の神経には限界があり、キング牧師もその限界を感じていました。彼の不安と恐怖が一気に噴出し、心の安らぎを求めて彼は祈りました。しかし神の前での祈りを通して、彼の身体と心には新たな力が戻りました。その祈りによって、彼は神の励ましを受け、正義と真理のために立ち続けることができました。

しかし、その3日後の集会後、彼の家が爆弾で襲撃される事件が起きました。驚きと不安に襲われる中でも、キング牧師はそのニュースを冷静に受け止め、家族の安否を確認しました。彼の家へ駆けつけた黒人群衆は憤慨し、暴力に訴えようとしていました。しかし、キング牧師の前回の祈りの体験が彼に力を与え、彼は再び非暴力抵抗の立場を維持し、群衆を鎮めることができました。

キング牧師は手をあげて。群衆をなだめました。

「静かに! みなさん、静かにして下さい。みなさんのなかで武器をもっている人は、どうか家へ持って帰って下さい。持っていない人は、どうか武器を手に入れようとしないで下さい。暴力による仕返しをしたところで、問題は少しも解決しません。ぼくたちは。暴力にたいしては非暴 む力でもってこたえねばなりません。″剣をとるものは剣にて滅ぶ”というイェスの言葉を思いお こして下さい」キング牧師は、みんなが平静にここを立ち去るよう勧めました。「白人の兄弟が何をしようと、ぼくたちは彼らを愛し、また愛していることを、彼らに知らせねばなりません。イェスがかつて仰せられた言葉は、今も僕たちの耳に鳴りひびいているはずです。″汝の敵を愛せ。汝を呪う者を祝福せよ。汝を虐げる者のために祈れ”これこそ私たちの生きる道です。憎しみには愛をもって報いなければなりません」

キング牧師の冷静で低音の声は群衆を黙らせ、彼がただ代表者として行動していること、そしてその運動が神の支持を受けていると述べました。彼の言葉は群衆を深く感動させ、彼らは牧師の支持と神の祝福を表明しました。この瞬間は重要な転換点で、もし牧師が少しでも動揺を見せていたら、非暴力運動の支持者たちは分裂してしまったかもしれません。その夜、暴力的な衝突が予想され、一触即発の状況にありましたが、キング牧師の非暴力のメッセージが人々を鎮め、大混乱を回避しました。彼は後に、「神の心が私たちの心に宿った」と述べています。

白人の暴力は続き、主要な指導者の家にダイナマイトが投げ入れられましたが、黒人群衆は非暴力を守り続け、白人の挑発を無視しました。暴力抑圧に失敗した反対派は大量逮捕へと方針を転換し、89名の黒人指導者と活動家を一斉に逮捕しました。これにはキング牧師らの協力者、運転手、長期間歩き続ける黒人労働者たちも含まれていました。驚くべきことに、牧師が刑務所に到着したとき、その雰囲気はお祭り気分で、逮捕された人々は恐怖ではなく誇りを感じていました。その後の裁判では、28人の黒人が証言し、バスの人種差別の実態を明らかにしました。彼らの勇敢な姿は、世界中の報道陣を感嘆させ、ボイコットがどのように黒人を変えたのかについての関心を深めました。これにより、キング牧師の非暴力哲学が再び注目されました。

キング牧師の「非暴力」哲学は二つの主要な特徴を持つ。第一に、白人も人種差別の被害者であり、その人格や魂が歪められているという見方。人種差別は、白人を黒人を見下し、僧み、侮辱し、冷酷に扱うという形で、白人自身の魂を重く病ませているという考え方だ。第二の特徴は、病んだ白人の魂を解放し、治癒する力が黒人の愛にあるという信念である。ここでの「愛」はギリシャ語のアガペーと相当し、ロマンティックな愛や友情ではなく、他人を理解し、救済する力を持つ善意とされる。これは純粋に自発的で献身的な愛で、これによって初めて敵対し、迫害する人々に対して理解と祈りが可能となる。黒人解放運動の最大の目標は、黒人だけでなく白人も解放し救済することであり、これはアガペーに基づく自己犠牲と社会改革の献身的な愛によるものである。

キング牧師の「非暴力」哲学にはさらに2つの特徴がある。第三に、非暴力の抵抗が唯一の正しい手段とする観点。これは物理的な破壊力や暴力を一切用いず、抗議のための座り込みやボイコット、デモ行進など、非暴力の直接行動を通じて社会の悪を排除する。このアプローチは臆病で消極的なものではなく、逆に行動的で積極的な抵抗である。第四に、暴力を用いる反対者からの弾圧に対しても、反撃せず苦痛を甘受し、攻撃を喜んで受け入れるという特徴。これは物理的には受動的だが、精神的には相手の良心に訴える活動的な行為だ。非暴力抵抗の目標は悪そのものであり、救済こそが目的で、反対者を打ち負かすことではない。和解を求めるためには、反対者の心に道徳的な恥辱感を呼び起こす手段、すなわち非暴力が必要である。キング牧師は、非暴力が愛と創造力に満ちた世界を創り出す一方、暴力はただ悲劇的な苦痛を生むに過ぎないと考えていた。

非暴力抵抗哲学の最終的な特徴は、それが「宇宙(または神)が正義に味方する」という確信に基づいていることです。この信念により、非暴力抵抗者は弾圧の暴力を甘受しながらも報復せずに立ち続けられる。この哲学は、人種的劣等感に長く晒されてきた黒人に、自分たちの人種に対する誇りと生きがい、そして人種差別撤廃への使命感を鼓舞しました。

1956年11月13日、モントゴメリーの裁判所では、バスボイコットを妨害しようとする新たな判決が下され、黒人が自動車に相乗りすることを禁止しました。しかし同日、ワシントンD.C.の合衆国最高裁判所では、バスの人種差別を認めるアラバマ州の法律が合衆国憲法に違反するという歴史的判決が下されました。このニュースに黒人地域は歓喜に包まれ、「全能の神が最高裁の口を通じて告げてくれた」「ついに我々の非暴力は勝利した」との声が上がりました。

モントゴメリーのバスボイコットは、キング牧師が「非暴力」哲学をアメリカに持ち込み、広める一環でした。この哲学は1960年以降、南部全域に広がり、大学生から市民、リベラルな白人までを動員し、最終的に1963年のワシントン大行進につながりました。

キング牧師の非暴力抵抗は、黒人の世界観を変え、救済者としての役割を強調するだけでなく、アメリカの世論をも変えました。当初、アメリカ社会は黒人を野獣的で暴力的な存在とみていました。しかし、南部から伝わる報道により、非暴力抵抗の下に組織された黒人の運動の目標が正義と尊厳であることが明らかになり、黒人が暴力を受け入れることで、白人の一方的な暴力性が露呈されました。

この展開により、黒人側に世論が傾くと、連邦政府は公民権法の制定などで人種差別撤廃に向けて動き始めました。非暴力抵抗が南部の白人の心をどれほど変えたかは定かではありませんが、それは間違いなく世論を変化させ、これまで得られなかった政治的影響力をもたらしました。

ワシントン大行進は、黒人大衆の集結としては歴史上最大の成功を収め、リベラルな白人が多数参加し、連邦政府が積極的に黒人の運動に関わるという点でも記録的でした。キング牧師の「私には夢がある」スピーチは、この非暴力抵抗の成果を踏まえ、アメリカの理想を描いたものでした。

キング牧師の非暴力哲学は1967年に国際的な範囲へと広がり、ベトナム戦争を含む全ての戦争に反対する立場を明確にしました。彼の早すぎる死にも関わらず、その信条と非暴力の実践、そして深まり続けたキリスト教の信仰は、後世に計り知れない影響を与えています。彼の偉大な魂と信仰は、アメリカの民主主義の再生、世界各地で社会変革を追求する人々、そして平和を願う全ての人々の心に引き継がれ、継続的に育まれていくでしょう。