1883,大阪市に生まれる.東京神学託に学び,佐渡、和歌山を経て札幌で牧会、月刊誌「泉」を創刊し、文書伝道に尽力。今次大戦中、弱小な教会を巨大な国家権力から守るため、力を尽くすが、その言動を特高に不敬罪、反戦運動家、社会主義者として訴えられ拘禁される。裁判の結果、最高裁で無罪を勝ち取る。戦後、日本基督教会の再建のために尽力。

1883年に大阪市で生まれた実業家の息子、小野村林蔵は、若き日に財産を獲得し家族を再興するという野望を持ちました。彼の父親は成功した事業を築きましたが、組織が株式会社に変わった際に主導権を失い、これが若き小野村に大きな影響を与えました。彼は東京で株式の仕事に身を投じましたが、身近な先輩の自殺によって深い衝撃を受け、富を得ることだけが人生の目標ではないとの新たな問いを持つようになりました。その後、彼は大阪に戻り、哲学書を読みつつ人生の意義を探求しました。

評判の哲学者、中江兆民の唯物論に心酔したものの、彼の中に自由や責任感、喜び、希望が消えていることに気づき悩みました。そこで彼は宗教に救いを求め、仏教を学びましたが、その厭世的な視点に失望しました。英語を習得した後、クリスチャンの友人に教会に誘われ、そこで聖書の教えに出会いました。仏教の無常観とは異なる神の愛と明るさに驚き、積極的な世界観を得ました。

小野村は「真剣にキリスト教を研究し、唯物論から来る詰まりから救われるかもしれない」と希望を見いだし、日曜日の礼拝には欠かさず出席しました。教会での穏やかな雰囲気と敬虔な祈りに感動し、新たな人生の方向を見つけたのでした。

小野村はシェンキヴィッチの『クォーヴァディス』に深い感銘を受け、初代キリスト教徒たちの信仰への奉仕と献身に心打たれました。彼の聖書に対する視点は一変し、神を信じ、キリスト者になるという強い願望が生まれました。しかし、唯物論からはまだ抜け出せず、カントの思想により理論的な問題を解決しました。その後、明治時代の科学技術の進歩を目の当たりにし、人間が自主的な理性存在であるとの確信を深め、神の存在を信じることを決心しました。1905年に大阪西教会で洗礼を受け、キリスト教による生命の希望を見つけ、その喜びに満たされました。その後も、彼は自身の信仰経験を何度も感激しながら語りました。

馬場牧師は小野村に伝道者になるよう勧め、キリストが伝道の中心であり、私たちは単にその道を照らす役割を果たすだけで良いと説明しました。そこで小野村は伝道同志館に入学し、後に日本人創立の優れた神学校、東京神学社に転校しました。そこでは豊かな図書資源と新鮮な気風があり、植村正久をはじめとする優れた教授たちから学びました。小野村は植村正久の教授法を高く評価し、彼の深い洞察と明瞭な教え方、さらには生徒たちとの親しみやすい交流を賞賛していました。植村は学生たちの個性を尊重しながらも、一貫した啓発と指導を提供し、学生たちが深い見識を培う場を提供しました。

小野村林蔵の伝道の初任地は佐渡講義所で、これは日本基督教会大会連合婦人会の開拓伝道地でした。現地では教育者や公務員、職人、学生などから成る熱心なメンバーが集まり、日曜学校や聖書研究会を開催していました。小野村はその時間を活用し、神学書を読みつつ教会員の訪問を行い、悩む人や病む人を慰め励ました。彼の細やかな人間理解はこの時期に培われ、またこの期間に渡辺ぜんと出会い、1910年に新潟教会で結婚しました。

明治43年7月から8年間、小野村林蔵は和歌山教会で牧師として活躍しましたが、この時期は大逆事件による社会主義者の弾圧と教会への監視が厳しく、活動は困難を極めました。中央政府は天皇制絶対主義を推進し、選挙権は限られ、社会主義者は弾圧され、信教の自由は外国に対してのみ表明されていました。この厳しい状況下でも、小野村は熱心に伝道活動を行い、訪問伝道を通じて人々に信仰を伝え続けました。その成果は直接は見えにくかったものの、その後の教会形成に大きな力となりました。

小野村林蔵牧師は、様々な年齢や職業のグループを作り、個々に親しく接するという伝道方法を活用しました。これには男子中学生の友愛会、北大生の学生青年会、社会人の実務青年会、札幌師範学校生の師水会などが含まれ、それぞれが定期的に集まり信仰訓練を受けました。また、彼は文書伝道も強化し、月刊誌『泉』や多数の単行本を通じて信仰を広めました。彼の伝道の核心は教会員の信仰の訓練と組織の強化で、教会を大切にする立場を貫きました。小野村は教会形成を重視し、その立場から他派との協力は避けました。特に1925年に彼が出版した『神社に関する疑義』では、神社崇拝の強制とそれに対する抗議の立場を明確に示しました。

「このパンフレッ卜が問題になって、投獄されるような場合が発生しないとも限らない。もしそうなった場合。私の蔵書を全部売り払って金に替え、それでパソフレ″卜を増刷して、世間の良識ある人々に贈呈してくれたまえ」

これが小野村牧師の決心でした。

札幌での伝道活動は順調に進展し、北海道大学の学生が増加しました。教授である新島善直博士や札幌第1中学校の原正夫教師、札幌商業学校の西村久蔵といった教育者たちが伝道に熱心で、実業家、官吏、教育者、婦人、青年といった多様な人々が信徒となり、教会は拡大しました。礼拝堂の狭さと札幌大火後の仮設状態を改善すべく、新たな建築計画が始まり、教会員は積極的に献金を集めました。1927年に完成した新礼拝堂は、人口10万の札幌市で一風変わった建物でした。また、大型オルガンを米国から購入し、美しく力強い礼拝が捧げられるようになりました。

問を受けました。これは日米戦争が進行中で、戦争が苦境に立つ中、政府が思想統制を強化し、反戦派を予防拘禁していた時期でした。小野村は虚偽の情報や敵意の存在を警告し、真実が最大の力だと主張しましたが、反戦運動を直接的に批判や戦闘の形で行ったわけではありませんでした。彼の優先順位は、教会の形成を強化し、宗教的役割を果たすことにありました。国家権力から弱小な教会を守ることを強く意識しており、政府の思想や政策を研究し、その国家主義や全体主義と激しく対立しないよう慎重に行動していました。小野村は「キリストの福音は、政府の国家主義・全体主義と矛盾しない面でも十分価値がある」と主張しましたが、多くの人々は沈黙を守り、閉鎖的な立場を取っていました。

小野村牧師は日本的キリスト教を維持しつつも、キリスト教を故意に変形する者たちに対しては忍耐強く真理を訴え続けた。北星女学校での特高の取り調べは、国体観念に反する教育の疑いから始まり、小野村牧師が不敬罪や反戦運動者、社会主義者とされた。彼は戦争を否定し、日本の神社のお札の一部を迷信と批判したことから取り調べを受けたが、自身の信念を貫き通しました。

小野村牧師は、不敬罪から逃れるために、自身が主筆を務める月刊『泉』で表現した「伊勢神宮の大麻奉戴について」の文章を引用した。この文章は、教会員を守るために国体に触れる思想を慎重に表現したものだった。後に彼はこの行為を妥協と認め、政府の思想政策とキリスト教の間で教会が弾圧を受けることを恐れたと述べた。結局、彼は言論出版集会結社等臨時取締法違反で懲役10ヶ月の訴えを受けた。小野村の立場は特高資料に四点として記録され、それを不穏言論の五つの視点から分析・解釈しました。

第1、敵国に利益を与えんとする不穏言論

第2、反戦厭戦思想に基づいてなす不穏言論

第3。唯物的、自由主義、個人主義に基づく不穏言論

第4、軽率に基づいて為される不穏言論

第5、国民の意識昂揚の手段とする不穏言論

1。2、3は検挙し、厳罰、第4、5は内容を検討し処罰するとし、次のごとく求刑しました。

「被告人は22歳よりキリスト教に入信し爾来一貫して同教を信奉の傍ら賀川豊彦の組合運励及基督教的社会主義等其の他唯物論を範読して参った様であるが、裁判長殿の訊問に対して申上げた様ですが、キリスト教の信念は一貫して来たものであります。最近国体明徴の関係より神社とキリスト教の衝突することとなって来たので、被告人は如何にして此の神社との術突を避け得るかと言う点から神社問題の著書を出すに至ったものと自分の臆測かも知れぬが自分は其の様に思うのであります。

戦争の見透しに対しても被告人は緒戦にかける大戦果以外の南方物資確保の唯物的見地から日本人の必勝の信念を取上げているとは思はれぬ、何れを見ましても犯罪事実は明瞭である。

この事件では、小野村被告は言論出版集会結社等臨時取締法第18条に該当し、10ヶ月の懲役を求める訴えが起こされた。本来なら治安維持法第7条に該当するとされたが、被告の年齢や健康状態を考慮し、10ヶ月の懲役が適当とされた。しかし、最終的には8ヶ月の懲役判決が下され、小野村被告は不服を申し立てた。その行為は検事から批判され、弁護人に滝川幸辰教授を指名した。滝川教授は事件を検察庁の横暴と評し、小野村の言論が当然の真理だが、当時の特高や検事の思想的偏向と無知が許せないと判断したと述べた。小野村自身はキリスト教の教会の実体を保つために妥協が必要と考えており、教会の伝道の困難さと先人の努力を評価していた。また、彼は愛する日本のために最善の宗教を伝え、キリスト教の立場で国をより良くする道を追求し、日本の軌道を外れた姿に対する警告を愛国心から述べていました。

キリスト教の中には、時局に妥協して、日本在来の神々と、キリスト教の神は1つであると、日本的キリスト教をとなえたものもありました。

教会員は、小野村牧師を信頼し、敬愛して励揺することなく、祈りつづけ援助しました。小野村は非国民ではないとの署名嘆願運動を起こし、多額の弁護料を集めました。教会から遠ざかる人もないわけではありませんでしたが。主な教会員は時勢の誤りを洞察し、牧師の無罪を信じて教会を守り支えました。一時、牧師の辞任を認めましたが、牧師館を提供し、家族の生活を支えて、後任牧師を考えたりはしませんでした。

滝川教授の弁護があり、最高裁の判決は無罪でした。それは昭和20年(1945年)5月24日、終戦も間近い。敗戦の色、濃厚なころでした。

戦後、小野村牧師の活躍は顕著で、札幌北一条教会の勢力を強化しました。敗戦後の荒廃と混乱の中で、多くの人々が真理を求め教会に集まり、彼の尽力により教勢は急増しました。彼は全力で福音を語り、各地で伝道集会を持ちました。教会は日曜学校伝道にも力を注ぎ、多数の分校を開設しました。

昭和23年(1948年)頃から、日本基督教団の内部で部制復興や会派認識の議論が生じ、これを主導したのが小野村牧師でした。戦時体制下で政府が教派合同を強制し、日本基督教団が結成された背景がありました。だが、教派間には神学、行政方法、伝道方法の違いなどがあり、指導者たちはそれぞれの教派の歴史と伝統を尊重し、部制を維持する方針を表明しました。しかし、これは政府の圧力により解消され、十分な審議もないまま教団が結成される形となりました。この事情については、石原謙の「日本キリスト教史論」に詳述されています。

戦後の社会混乱が収束し、日本基督教団結成から数年が経過した後、小野村牧師は再び部制の復活と会派形成の自由を求めました。既に救世軍、ルーテル教会派、聖公会派、旧日本基督教会の改革派、きよめ派などが教団から離脱していました。彼は教団が未来に向けて混乱せずに活動を続けるためには、部制の維持が必要と主張しました。

教会行政の相違は大まかに3つの立場に分けられます。1つは各個教会の主体性を強調する立場、2つ目は各教会の群れで組織される地方集団に教会性と統制指導権を認めるもの、そして3つ目は選ばれた終身の監督が指導監督するものです。これらを一つにまとめることは難しいとされていました。

旧日本基督教会系の人々は協力伝道会や東京伝道局等の活動を始めており、小野村牧師はこの問題と現状を公に議論すべきだと主張し、その思考を教団の機関紙「基督教新報」に投稿しました。その全文は昭和24年(1949年)12月28日発行の新報に掲載されました。それは以下のようなものです。

教団の良識に訴える。小野村林蔵

教団組織の問題が、個人的に集団的に漸く真剣な問題となりつつある。だがどういうわけか、教団の機関紙に現われる意見は、いつも1方的に現状維持論の1本槍のように感ぜられる。キリスト教会はその精神に於ても最も公平、寛大、かつデモクラテックなるべきである。教団組織の問題に於ても虚心坦懐、充分に衆議が尽さるべきである。教団の機関紙が1部の思想の代弁者のような印象を人、に与えることは、厳に慎まねばならぬ。この点。機関紙編集の責任を任じて居られる諸君の善処を希望したい。

先般、賀川豊彦氏が札幌に来られた時教団組織の問題が話題にのぼった。その時、氏は「部制という言葉が悪い。何とかよい言葉がないだろうか」といわれた。ユニオンに対してフェデレーションを表示する言葉として「部制」という言葉の響きが悪ければ、ユニオンを「単式」フェデレーショソを「複式」と呼んではどんなものだろうか。兎に角。筆者はこの文では「単式」 「複式」ということにする。御諒承ありたい。

単式論者の中には、単式教会(教団)こそ正統思想である。複式教会(教団)は神意に添わない不敬虔な思想であるというような口調や態度をする人を往、に見るのである。「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つ、キリストの教会は1つでなければならぬ」と単式論者はいう。まことにその通りである。複式論者である筆者も「然り」と同感するものである。だがその「1つ」という形が聖書に2つ示されている。1つは囲いの中にあつめられた羊の                         群という形である。他の1つは同じキリストという葡萄の幹につらなる枝が様、な枝ぶりを発揮しながら。しかも1本の葡萄の樹を成しているという意で1つであることである。この何れもがキリストの教えである。両者にそれぞれ真理があるべきである。従って、前者を個個の教会と見、後者を全教会と見るならここに両思想を正しく調和するであろう。

筆者は考える。キリストの教会は生命を持った活きた存在である。生命の本来は、1から多へ種を産み、類を生じることにその特性がある。自然界の進歩は生命のこの特色の発揮によって違成されて来た。若し生命の分化発展が許されなかったら、遠くの昔に生命は地球上に絶えはてたであろうとは生物学者の見解である。

分離という言葉は響が悪い。だが教会の歴史は常に分離の歴史である。エルサレム教会の割礼主義に対して、パウロの運励は反割礼主義の教会を建設することにあった。それは明らかにエルサレム教会からの分離にほかならなんだ。だがエルサレム教会の中心人物の雅量によってこれは極めて円満に友好的空気のうちに行われた。だが不幸にも末輩中にペテロやヤコブの苦衷を解せぬうつけ者らがいて、忠誠無種の大使徒を反逆者呼ばわりして、さんざんに苦しめた。だがパウQの分離運動が無かったら今日の世界のキリスト教会はあり得なんだろう。そればかりでない。紀元70年にエルサレムが滅亡した後は衰退の1途をたどった割礼主義教会が遂に地上から姿を滅するに至った時に、キリストの教会は永久に消滅し去った筈である。生命存続の原則は生物の世界ばかりでない。キリスト教会に於ても厳然たる真理である。

ルターの宗教改革運動は勿論である。ピューリタンの運動も、ウェスレーの運動も、古くはワールドの運動も何れも分離運動であった。そして、その何れもが信仰的新生命の発動を意味した。しかもその何れもが信仰的良心運動であったことを忘れてはならぬ。これらの分離運動を否定することはキリスト教の生命を否定することであった。ただ悲しきは教会の保守主義者に寛容と良識とが欠けたため。その多くに洸血の悲惨が発生し。幾多の受難者を生じたことである。

筆者は観ている。かのカトリック教会内のオーダーはフランシスカンにしろ、ドミニカンにしろ。アウグスチヌス派にしろ、何れも1毬の分離運動であったと。これらの諸オーダーは政治的に、経済的に互いに横の関係を持っていない。ただそれぞれに法王に直結しつつあることによって。1カトリ″ク教会に属しているのである。この意味からカトリック教会は1種の複式教会である。

カトリック教会が幾度か癒し難い腐敗を生じた時に、こうしたオーダーの生命力によって救われて来たことは歴史上に否定し得られない事実である。単式1本の教会組織はその1本が病を得たら取り返えしのつかない事態を生じる恐れがあろう。この点、特に深慮を要するものがある。

単式論者の多くはかく主張する。「日本のキリスト者は本来に教派的な知識も感借もなかった。たまたま行き合せた教会にそれぞれ外国伝来の教派別があったため、知らず知らずにそれぞれの教派に属するようになった。従って教派の分立は日本では無意味である」と。この意見の前半は事実である。偶然にそれぞれの教派に属するようになった。これは複式論者も認めるにやぶさかでない。だがそれだから日本では教派は無意味だとする考え方には論理の飛躍がある。

我らは先ず外国のキリスト教会に教派の存在する事実の、よって基づく原因を明らかにする必要がある。そして若しそれに必然性を発見するなら。そしてそれが普遍的な性質のものであるなら、日本の教会も必然に教派を生ずべき筈である。従って「教派の分立は日本では無意味だ」とする主張は意味をなさないことになる。

ルッターの宗教改革運動の出発は。カトリック教会内にあって教会の病弊を改革することにあった。教会の分裂を初めは考えていなかった。併しライプチヒの討論以後、彼は漸く鮮明に、彼我の立つ原理の相異を認識するに至った。それは互に敬虔の類型を異にする2つの信仰であった。ここにルターは分裂の腹を据えた。

聖フランチェスコを生み、聖ペルナールを生んだ教会である。誰がカトリック教会をキリストの教会でないと言うことが出来よう。しかもその原理はプロテスタントの立つ原理と到底調和し得られないものである。キリスト教会に教派の存在の止むを得ない実証を先ずここに見るべきである。

更に1歩繩囲を狭ばめて。同じプロテスタント内を見ても。到底互いに調和し難い敬虔の質のあることを容易に見ることが出来る。例えば救世軍の如きはその1例である。

それは洗礼及び聖餐を守らない。その伝道の形式も1種独特のものである。我らの理解するキリスト教の立場からするなら随分特異な存在である。しかし、それが1種のプロテスタント主義に立つキリスト教運動であることは疑うべくもない。かつこの派は、この派特有の立派な業績を示して、その存在の理由をキリスト教界に対して主張しつつある。筆者の如きも、その或る点に対しては深い好意と尊敬とを持っている。だがこの派の敬虔と筆者の抱いている敬虔とはかなり深い質の相異を感じる。同派が軍部の圧迫に強いられて、心ならずも我が教団に加り、終戦後脱退し去ったのも、その立教による必然であり、敬虔の質による止むを得ぬ結果でもあった。

それは救世軍ばかりでない。終戦後、聖公会離れ、西バプテスト去り、ルーテル派分れ、旧長老系から改革派が生じた。その理由を詮索するなら信仰的主張に於て、また敬虔の質に於て、まことに止むを得ぬものがあることを発見するであろう。現に旧ホーリネス系の人々が部制の要望を教団に提出しつつある。筆者の尊敬する同系の1牧師に部刳要望の理由を尋ねたら、同君は謙虚な且つ真実に溢れた態度で、同系に属する教会の復興には同系教会が育って来た信仰の方法の復活によるより道のないことを痛切に知ったことによると語られた。筆者は若し教団で部剽をこばむなら、これらの人々は必然に教団から分離し去るであろうとの危惧を抱かしめられている。ここにも教派発生の理由を発見するのである。

これらの事実は単式制度の困難を語るに充分である。我らは冷静、公平に、この現実を直視すべきであろう。

ここに甚だ遺憾に感ぜられることは、教団脱退者に対して種々の悪声を放つ人々が教団内にあることである。そのうちにいやしくも士君子の口にすまじきことをもってする人々がある。キリストの愛に欠けたりと言うべきである。教団を去った人々の内には、或る人々の非難するように、功利的動機によるものもあるかも知れぬ。しかし筆者は切実な信仰的理由の故に教団を去った幾多の人々を知っている。しかも教団に留りつつある人々のすべてを純潔、清廉の士であると誰が言い切ることが出来よう。

現教団が結成された時に最も強く強調されたことは、日本に於けるプロテスタントの全教会を1つに結集することにあった。それが終戦後。続々と相継ぐ脱退者を見ては、教団結成の中心理由が今や全く失われたと言わねばならぬ。しかも、これらの脱退を阻止するために、教団に於て何れだけ親切な考盧が払われたであろうか。複式制度こそはこの脱退を阻止し得る唯1の道であることを信ずるものから、筆者はこの点に限りなき遺憾を感ずるものである。

単式を守って脱退者を無視することが正しいか、複式によって日本の全プロテスタントの結集を全うしようと努力することが誤りか、是非の判断にこれほど明瞭な道理はあるまい。ルッター以来、我らプロテスタソトの最深の祈願は信仰的良心の自由にあった。単式主義者諸君の賢明に訴えて、この反省を求めざるを得ぬ理由である。

以上率直に所懐を開陳した。なお語るべきことが多くある。それは他日の機会にゆずる。恐れるところは直言が度を過ぎて、或は無用の刺激を反対の立場にある人、に与えはせぬかにある。無礼をゆるして、意のあるところを掬んで頂きたい。

朔北の雪に埋もれて32年、齢も今や66歳である。余命もおそらくは5指を屈するに至らないのではあるまいか。自己の利害に関しては淡々として水の如き心境にある。胸中に燃ゆる熱情は我が愛する祖国を如何にかして。我がために十字架に死に給いし、主イェス・キリストに捧げえん一事にある。思い1度ここに至っては、教団組織の欠陥から生じる種々の伝道的不利に対して、感情の沸騰を禁じ得ない。この一文を草した理由である(24年12月28日号)。

旧日本基督教会系以外の人々の中には、部制反対論者が多かったのです。教団に不満なものはすでに離脱し。合同の現状をくずすことが教団の危険につらなると、単純に考えたようです。教団への責任は、より完全な合同へ進むことであるとの反論が強かったのです。また、教団結成後養成された若い教職はどうなるか。戦争中の苦労の中で結ばれた友交関係を大切に育てていきたい等、、旧日本基督教会系の中でも、論議が湧きました。

4月18、19、20日と3日間。神奈川県金沢文庫で、旧日基系教職の修養会がもたれ、話し合い。協議の結果、「教団は会派を公認する事」の要望書提出を可決し。7条の教団組織の要綱を発表しました。そして6月に、信徒代表も含めた教団対策の協議会が富士見町教会で開かれました。色、な意見が出され、時間も足らず結論に至りませんでしたが、小野村や、村田四郎等の継統委員をあげ、教団と交渉してゆくこととしました。

教団は第5回総会で、この問題の処理を機構改革委員会に委ねましたが、この委員会は「会派の存在は現状のものはやむをえないが、これを教団の教規に入れることは出来ない。教会性を持つ会派は公認できない。会派を公認すれば。忠誠心は会派に吸収され、教団は名目のみになり、崩壊する」との報告書を提出しました。

昭和25年(1950年)の第6回総会では、小野村牧師の報告は受け入れられましたが、議案についてはさらなる研究が必要とされ、委員会へ回されました。旧日本基督教会系の村田四郎が会派を公認し、教規に会派の条項を加える議案を提出する予定でしたが、それは受け入れられず、混乱しました。その後、教団からの離脱が続き、北海道中会、東京中会、近畿中会の3つのプレスビテリが設立されました。

小野村牧師は、新日本基督教会の強化に尽力していましたが、戦時中の投獄生活と戦後の多忙さによる過労が重なり、蜘蛛膜下出血で倒れ、昏睡状態に陥りました。しかし、教会員の祈りと医師の熱心な治療、新薬の効果により、彼は意識を回復し、体力も徐々に戻りました。

その後、小野村牧師は3年間の静養を取り、札幌の郊外にある教会員から贈られた小さな家で過ごしました。静養中も、伝道のために月刊誌「泉」を発行し、文書伝道に専念しました。静養後は健康を回復し、月に1回説教を行い、2年半の教会奉仕を続けました。しかし、病気が再発し、千葉の八千代台で療養していましたが、昭和36年(1961年)10月11日に亡くなりました。