1889年東京に生まれる。東京帝国大学法学部を卒業後,立教大学講師等を経て関西学院教授となる。労働問題に関心を持ち,弾圧にめげず労働運励に尽力,

1928年第1回衆議院総選挙に日本労員党から当選,政治家の道を歩む。戦時中,体制内に不本意ながら身を匠いたため戦後公職追放に合い,1951年解除。以後,社会党統一のため,あるいは委員長として活躍。1965年死去。

キリスト教徒として育った河上丈太郎は、父親の影響を強く受けていました。「十字架委員長」というニックネームは彼が戦後に受けたもので、一部で否定的に受け取られることもあったものの、丈太郎自身はより深い意味をこの名前に込めていました。1952年に右派社会党の委員長に推薦され、一度は躊躇したものの彼は最終的にこの役職を受け入れました。

就任した時の挨拶は次のようなものでした。

先人はわれわれに教えて曰く

「屍を越えて突撃せよ」と。

この苦難の道を避くることを

私の良心が許しません。

委員長は私にとって十字架であります。

しかしながら

十字架を負うて

死に至るまで闘うべきことを

私は決意したのであります。

この就任演説は、敗戦後の東洋大学の講堂で行われ、当日は暑い日でした。戦前の代議員たちに深い感銘を与え、後に録音されました。時に丈太郎は63歳でした。彼は東奔西走の活動を開始しました。就任時には左右社会党の統一を公約し、精力を傾けました。彼は統一社会党で顧問となり、委員長の要職に5年間務めました。昭和40年、病気となり、療養に専念するため委員長の職を辞しました。その後、伊豆の韮山で家族や仲間に見守られながら亡くなりました。彼の就任演説の一節は、その時実現された約束でした。

丈太郎は1889年に東京の巴町で生まれました。父新太郎は当初大工でしたが、ある建築事故後、古材木商に転業しました。彼はクリスチャンとなり、その信仰生活は丈太郎に大きな影響を与えました。新太郎は毎晩聖書を読む習慣を持ち、後に丈太郎にそれを読ませて聴いていました。彼は死ぬまで日記を書く習慣も持っていました。新太郎は商売以上に伝道に力を入れ、教会活動に熱心でした。また、家庭学校の創設者・留岡幸助や社会事業家・本間俊平といった信仰上の友人がいました。新太郎が大工として建てた建物は家庭学校の最初の建物でした。

新太郎は革新的な思考で、代書屋のアルバイトを通じて地元の貧困層を支援しました。その行動は、息子の丈太郎にも影響を与え、丈太郎は小学生の頃からキリスト教に自然と親しみ、教会活動に参加しました。新太郎が1931年に亡くなった際には、「神と人につくす人になれ」と言い残しました。

丈太郎は学業に優れ、規定の4年間を全うすることを重視し、新太郎の主張に従って中学進学を2年遅らせました。これは彼が同級生から尊敬される要素となりました。丈太郎は立教中学に進学し、福永一良と親しくなり、江戸文学や落語、歌舞伎などの文化的興味を深めました。福永の推奨により、後に重要な関係を築くことになる賀川豊彦の初の作品が出版されました。

父新太郎は自身が無学であったため、息子丈太郎を立教中学、1高に通わせることに尽力しました。丈太郎は一家の長男で、1人の弟と4人の妹がいました。明治36年頃から、丈太郎は反戦論を展開していた「万朝報」を愛読し始め、日露戦争開戦時に内村鑑三、堺枯川、幸徳秋水の退社辞を読んで感銘を受け、社会主義に目覚めました。この3人は「万朝報」が開戦を支持する方向に転じたことに反発し、自身の反戦の立場を明らかにしたのでした。その後、丈太郎は木下尚江の社会主義や演説に魅了されるようになりました。

明治41年(1908年)に丈太郎が1高に入学した際、校長は新渡戸稲造で、これは1高の全盛時代でした。丈太郎は中学時代から弁論に憧れ、1高では弁論部に入り、やがて委員を務めるようになりました。彼は自身がクリスチャンであることを他者に示すため、机の上に大きな聖書を置いていました。新渡戸から人格主義を学び、内村鑑三の雑誌を読んで深く影響を受けたものの、内村のもとへは足を運ばなかった。

在学中、幸徳秋水の大逆事件が起こり、全国的な社会主義者の逮捕が行われ、幸徳ら26名が起訴されました。明治44年早春、卒業が近づいた弁論部委員の3人は、徳富蘆花を卒業記念講演会の講演者に選び、鈴木と丈太郎は蘆花の自宅を訪れました。彼らが訪れた時、通常は会う人を選ぶ蘆花は快く迎え入れ、演題として「謀反論」を選んだ。

明治44年、卒業間近の丈太郎は、徳富蘆花による卒業記念講演会を企画しました。重大な演題「謀反論」は、事前には公表せず、蘆花が登壇する直前に公開されたため、会場内は驚きとどよめきに包まれました。蘆花の演説は、幸徳秋水らの大逆事件に対する不当な扱いを非難し、謀反こそ青年の真骨頂であると主張しました。彼は井伊直弼と吉田松陰の対照的な運命を引き合いに出しながら、新たな謀反が必要と訴え、幸徳らの死刑判決を強く非難しました。

演説終了後、文部省から強硬な抗議があり、「1高の蘆花事件」として新聞で取り上げられた。結果的に、新渡戸校長と弁論部の教授が処分を受け、事件は収束しました。しかし、丈太郎はこの「謀反論」を最も感銘深い演説と認識し、蘆花が社会主義運動に対する公然たる批判の声を上げたことに感激し、自身がこの歴史的事件に関わったことを誇りに思いました。

明治44年、丈太郎は東京帝国大学法学部に入学しました。その学生時代は弁論部の活発な時期で、彼の演説は野間清治の雑誌『雄弁』に頻繁に掲載されました。特に「アナトテの予言者」という演説は彼の政治への姿勢を形成しました。

大逆事件後、社会主義の活動は低迷しましたが、彼は統計学者高野岩三郎の影響を受け、生涯その交流を続けました。彼は後に大原社会問題研究所の所長になった高野の仕事をサポートしました。また、高野が日本労農党の党首または顧問になることを働きかけましたが、高野はこれを断りました。

晩年に丈太郎は、内村鑑三、新渡戸稲造、高野岩三郎の3人から影響を受けたと述べ、それぞれからキリスト教、人格主義、社会科学を学んだと語りました。しかし、最終的には彼自身を形成したのは彼の父新太郎だと答えました。

東京大学在学中の丈太郎は、高等文官試験に合格し、朝鮮総督府に勧められましたが、サーベルを帯びることを拒否し、母校の立教大学で講師を務めることにしました。1918年、立教大学での卒業生パーティーで、のちのヤマサ醤油社長外岡松五郎から関西学院への移籍を提案され、丈太郎はそれを受け入れ、関西学院での10年間の教授生活と、それに続く40年間の政治活動を開始しました。

関西学院に到着したとき、彼は文学部長のアームストロングに対し、「私はあなたに使われるためにここに来たわけではない。日本を教化するあなた方の仕事を援助するために来たのだ」と述べ、受け入れられました。

1919年には、立教中学の恩師野村戒三の紹介でメソジスト教会2代目監督平岩侃保の四女末子と結婚しました。その後、丈太郎と末子は静かな家庭生活を送り、4人の子供をもうけました。結婚式は質素で、記念写真を撮ることを丈太郎が拒んだため、人々を驚かせました。彼は、真に結婚が幸せであると感じてから初めて写真を撮りたいと述べました。

関西学院で新任として紹介された際、丈太郎は婦人同情会で活動していた城のぶという婦人と出会い、彼女の父・新太郎への敬意から友情が生まれました。その後、丈太郎は関西学院で社会学科を創設し、質の高い教育を提供することに尽力しました。

彼の週次チャペルでのスピーチは学生に大変人気であり、多くの学生に感銘を与えました。彼は学生の面倒を見て、学生たちに関西学院の誇りを伝え、”オヤジ”と親しまれました。彼のスピーチは今日残っていませんが、彼の教えが学生たちに与えた影響は大きかったと言えます。

彼は法学の講義も一般的な方式ではなく、当時の新聞事件を取り上げたり、最新の社会思想を伝えるなど、ユニークな形式で行いました。出席を取らず、試験問題は高度であったにもかかわらず、落第点をつけないことで知られていました。

昭和2年に大学を去る際、学院の院長などは彼に学院の幹部として残ることを望んでいました。これは彼が関西学院に新風を吹き込んだ証であり、その貢献は高く評価されていました。

大正時代、丈太郎は労帥運動の隆盛期に賀川豊彦と知り合い、大阪労働学校や神戸労働学校の講師として活動しました。また、無産政党を母体とする政治研究会の神戸支部長に就任しました。しかし、京都大学を中心とする京大学連事件の余波で官憲の家宅捜索を受け、多くの蔵書が押収されました。

大正14年(1925年)、普通選挙法と治安維持法が成立し、昭和2年(1927年)には普選法に基づく第1回の地方選挙が行われ、翌年には第1回の衆議院総選挙が行われました。これに伴い、進歩的な教授講師陣が一斉に関西学院から街へと出てきました。

昭和2年には、丈太郎が阪本勝の選挙事務長を務めて彼を当選させ、翌3年には阪本が丈太郎の選挙事務長を務めました。これは、当時の関西学院の進歩的な教授講師陣が一丸となって社会に影響を与える活動を展開した象徴的な出来事でした。

昭和3年の選挙は厳しい弾圧の下で行われ、丈太郎は見事に当選し、初の無産党国会議員8人の一員となりました。当時、社会主義政党は複数に分かれており、丈太郎は中間派の日本労農党唯一の議員となり、その地位を確立しました。もし彼が当選していなければ、日労党は消えていたかもしれません。この日労党グループには、麻生久、三輪寿壮、河野密、浅沼稲次郎、三宅正一、杉山元治郎らが参加し、戦前戦後を通じて一貫した活動を行いました。

日本の社会主義政党は、明治34年に安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、木下尚江らによって結成された社会民主党が最初で、その後、大逆事件で社会主義運動は中断しました。しかし、大正6年(1917年)のロシア革命と翌年の米騒動を契機に、社会主義運動は再び高まりました。そして普通選挙の実施により、初めて社会主義者が国会議員に選出されることが可能になったのです。

無産党議員8名が初めて国会に登院した際、彼らの影響力は小さなものでしたが、それが表決を左右するキャスティングボートを握る可能性があったため、一般の注目を集めました。昭和4年(1929年)には、無産党議員の山本宜治が右翼の暴力によって亡くなり、その緊急質問を引き受けたのが丈太郎でした。彼の追悼演説「屍を越えて」は、山本の献身的な労働者運動と、彼が血に染めて戦った政治的自由解放を称え、日本の反動政治と思想に対する批判を表明しました。丈太郎は、肉体が滅びても、人間の思想と霊魂は決して消えないと強調しました。

丈太郎は、山本宜治の献身的な階級闘争意識が、彼の死後も日本の民衆の中で生き続けると信じていました。彼は治安維持法を非難し、それが山本の死に関連していると主張しました。丈太郎は、山本の死と治安維持法の通過が、将来の民衆が再び立ち上がるための踏台になると信じていました。彼の演説は当時の新聞に「暗黒の中の一条の光明」と評価され、彼自身は悠然とした態度でその時の警戒を無視しました。彼は、その若さとは異なる落ち着きと自信を持っていました。

第2回選挙で落選し、末娘を病気で亡くし、自身も病を患うという重い打撃を受けた丈太郎の苦難の時代が始まりました。彼は落選後に神戸市で大規模な報告演説会を開き、選挙で敗北したにも関わらず「我敗れたるにあらず我勝てるなり」と力強く表明しました。その後、鐘紡大争議の先頭に立ち、工員たちを励ましたものの、争議後はさらなる困難に見舞われ、健康や家族の問題で試練の時期を迎えました。昭和7年の第3回選挙でも再び落選し、友人の賀川豊彦の好意で療養生活を送ることになりました。彼は満州事変に反対する立場を明確にし、失望や離脱を考える仲間たちを奮い立たせるために全国遊説を計画しました。

丈太郎は、初めは困難でも、一度火がつけば力強く進展するという信念を持って、困難な時期を乗り越えました。この時期、彼の妻末子が営んでいた「ひな菊英語女塾」は「愛宕英語学校」と改名し、東京に移転した後に成功を収めました。当時の東京では英語学校が少なかったため、その学校は重要な役割を果たしていました。また、この期間、丈太郎自身は弁護士としての業務に専念しました。

昭和11年(1936年)の総選挙で、丈太郎はトップスコアで勝利し、6年間の苦労が報われました。この選挙では、社会大衆党が全国的に18名の議席を獲得し、一気に進出。労働者数が40万に達するなど、この時期が戦前無産政党や労働運動のピークでした。しかし、これらの成功は一時的なもので、日本が戦争へと進む足音が近づいていました。2・26事件や日支事変の勃発などにより、社会大衆党の躍進は戦時体制に押し潰されていきました。当時の社会大衆党書記長、麻生久は皇室に近い人物と労働運動の結合が必要との理論を提唱し、近衛文麿の新体制運動に同調していきました。丈太郎自身はこの動きに積極的には賛成せず、でも明確に反対や訣別することもありませんでした。

昭和11年(1936年)10月25日、徳富蘆花の追悼講演で丈太郎は「蘆花と社会思想」をテーマに講演し、蘆花の「謀反論」のエピソードを初めて公表しました。丈太郎は蘆花を「時代の良心」と位置づけ、その存在が現代の日本にどれほど必要かを強調しました。しかしそのような言葉さえ印刷に耐えることができない時代に突入し、昭和15年(1940年)には各政党が解散し、新体制運動が始まりました。社会大衆党も解散し、その書記長であった麻生は新体制準備会委員に任命されるも心臓病で亡くなりました。その後、大政翼賛会が設立され、麻生の後任として丈太郎が総務となりましたが、戦時中はほとんど沈黙を守り、苦渋の日々を過ごしました。

昭和20年(1945年)の敗戦後、丈太郎は日本社会党の創設に活発に取り組み、11月2日に日比谷公会堂で創立大会を開催しました。しかし、戦争中の協力に対する反感から、彼は顧問の地位に留まり、書記長には片山哲が就任しました。昭和21年(1946年)1月4日、GHQによる公職追放により、丈太郎は政界から退場を余儀なくされ、約6年間の政治活動禁止期間を経験しました。この期間、彼は聖書の学習に励み、特に旧約聖書のイザヤ書を何度も読み返しました。また、彼は中国古典の読書を始め、孫子から「進不求名、退不避罪、唯民是保」(進んで名を求めず、退いて罪を避けず、ただ民これ保つ)という言葉を引用し、色紙に書き留めるようになりました。さらに新約聖書のギリシア語を勉強したのもこの追放時代でした。この期間の苦渋が、丈太郎の晩年の成熟した風貌と政界への復帰に一役買ったと言えるでしょう。

昭和26年(1951年)8月、丈太郎の追放が最後に解除され、彼は政界に復帰しました。しかし、すぐに社会党の分裂問題に直面し、丈太郎はこの分裂を防ぐために尽力しましたが、当時は党への復帰直後で影響力が限られていたため、分裂を止められませんでした。それでも彼は、自身が政界に戻ったからこそ、日本社会党の統一を達成することを深く誓いました。

翌年、右派社会党の委員長に就任し、約3年間で社会党の統一に向けて尽力しました。その結果、昭和30年(1955年)10月13日に、社会党の統一大会を開催することができました。

しかし、思想の多様性からくる対立が続き、昭和34年(1959年)の安保条約再改定前に、西尾末広率いるグループが離脱し、民主社会党を設立しました。丈太郎は最後まで分裂を避けようと努力しましたが、結果的にはこれを防ぐことはできませんでした。しかし、彼の行動は分裂の気運を一時的に止めることに成功し、それが歴史的な安保闘争が社会党主導のもとで展開されるきっかけとなりました。

安保闘争中に社会党と市民が力を発揮しましたが、政治的暗殺の雰囲気が再び浮上しました。議会で安保反対の請願を受け付けている時、丈太郎は青年に刺され、危うく命を落とすところでした。数か月後、浅沼稲次郎が公会堂で暗殺されると、丈太郎は「私は殺されようとし、浅沼は殺された」と叫び、社会党への支持を訴えました。

翌年、浅沼の後を継いで丈太郎は委員長になり、その後約5年間、社会党の発展のために全力を尽くしました。浅沼の死後、丈太郎は追悼演説を行い、テロや暗殺が再び繰り返されないことを願いました。

彼は浅沼の葬儀で、自身の生涯が残り短いことを認識しながらも、浅沼の理想の社会を作り上げるために、彼の魂を抱き続けることを誓いました。これが丈太郎が最後の5年間、止まらない活動を続ける原動力となったと思われます。

丈太郎の政治生涯は長く、初めての社会主義者代議士の一人として、25年にわたり国会議員を務めました。彼のリーダーシップの下で、社会党は8人から国会議席の3分の1を占める大きな勢力に成長しました。

彼が政界に身を投じた理由は、民衆の幸福と政治の倫理化に貢献するためであり、これを達成するには社会党が最適であると信じていました。彼は自身の人生でこの目標をどの程度達成できるかについては不確かでしたが、最後まで努力を惜しまない意志を持っていました。

晩年は彼にとって最も充実した時期でしたが、一方で、彼の最盛期の10年以上を政界から離れて過ごすことを余儀なくされたことは、政治家としての損失だったかもしれません。

彼の思想を体系的に把握することは困難で、キリスト教徒としても彼は信仰について積極的に話すことは少なかったことが指摘されています。

新渡戸校長のもと、初めて寄宿舎に入った時、丈太郎は大きな聖書を机の上に置くことで、自身がクリスチャンであることを示しました。他人に対しては寛大だった彼でしたが、自分自身には厳しい規律を課していました。

ある時、満員の通学列車でデッキに立っていた丈太郎のために、同行者が車内で学生に席を譲るよう頼みましたが、丈太郎はそれを頑なに断り、立ち続けました。

彼のキリスト教に対する理解は体系的に把握することが難しいですが、「山上の垂訓」の説教の中で、「貧しきものは幸いなり」という聖句について、「心の貧しきもの」よりも、「貧しきもの」そのものが本当に幸せだと説いています。彼は神が必ずいなければならない人々を通じて経綸を行うという確信を持ち、そのために貧しい人々のために働く者が必要だと考えていたと思われます。「アナトテの予言者」の中で「自分はあるいは力の弱いものであっても、神からの選択があればやはり立ち上がらなければいけない」と明言しており、彼はこの時期を若い日から静かに待っていました。

丈太郎の戦時中や戦後追放時代の経験が彼の後の活動にどのように影響を与えたかは、彼自身があまり語らなかった。しかし、1958年に「親子3代の書」で述べた彼の戦時中の経験が一部示唆している。

彼は日本が戦時体制に移行した時、中国を訪れ、英国の宜教師と旅を共にした。帰国直前のその宜教師に愛誦の聖句を尋ねたところ、彼は丈太郎の聖書の扉に「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛し合おうではないか」という言葉を書き入れた。これは彼にとって、日本への大きな警告であり皮肉な批判であると感じた。

この経験は、戦時中の苦悩が刺のように彼の心に残り続けたことを示唆していると考えられる。これは、1958年10月29日に警職法案に関連し、予算委員会で岸信介首相への質問を通じても明らかになっている。

丈太郎は戦争の責任者とされ、その結果追放された経験を持つ。この経験は彼の生涯で最大の反省の機会となった。彼は戦争に積極的に参加してはいなかったが、戦争推進の団体の役員であったために追放された。彼は戦争の責任者として、日本国内外に甚大な迷惑をかけた事実を決して忘れてはならないと総理大臣の岸信介に訴えた。彼が最大の政治的任務として求めたのは、戦争で迷惑をかけた日本の大衆に対する謝罪の精神であった。

この質問は異様な感動ととまどいを予算委員会に引き起こした。丈太郎は自己批判の覚悟を持って質問に臨んでいた。

さらに、彼が戦後の政治活動における重要な焦点をどこに置いていたかは、日本が世界で唯一の被爆国であるという事実に注目していたことからも推察できる。これは、1962年5月7日の衆議院外務委員会で総理大臣の池田勇人とのやりとりから明らかである。

原爆唯一の被害者である日本は、その痛みを通じて世界の平和を求める唯一の理由を持っています。原爆が日本に落ちたのは偶然ではなく、私はそれを日本が世界の平和をもたらすために選ばれた民であると解釈しています。これはユダヤ民族が神によって選ばれたように、我々日本民族も平和を担う選民として選ばれたのだと考えています。また、我々は平和憲法を持つ唯一の国で、これも世界に類を見ない特徴であり、日本民族が世界の平和をもたらすための強力な柱であると解釈します。したがって、我々は原爆の惨劇を忘れず、平和憲法を忠実に守ることが求められます。それにより、日本の意見は世界的権威を持つものとなると信じています。

丈太郎の政治家としての資質は、その人格的魅力、江戸っ子の粋さ、計算のない大きさ、そして心温かさによって形成されています。新約聖書の愛(アガぺー)に似た、全ての人々への等しく暖かい愛情が彼から感じられました。

彼の人生は四つの時期に分けられます。第1期は立教に奉職するまでの人格形成期、第2期は関西学院に在職した30代の期間、第3期は普通選挙法下の総選挙で出馬し政治活動に取り組んだ時期、そして第4期は戦時体制下で社会党が解散した時期と戦後、日本社会党を再建する期間を含む時期です。

彼は民衆の解放のために、社会主義政党の育成に全力を投じました。国会議員としては、議席を8から総議席の3分の1まで増やしました。しかし、その間にも彼は戦時・戦後の困難な日々を通じて、日本の政治のために全力を尽くし続けたと言えます。

彼の生涯は、親子3代で愛された聖書と密接に結びついていました。彼は生涯を通じて聖書とともにいることを幸せだと感じており、その愛情は父から受け継がれ、子にも引き継がれると考えていました。