エアフルトとヴァイマール、これら二つの古いドイツの町の中間には、プーヘンヴァルト(ぶなの森)という場所があります。これは、ナチスがユダヤ人や他の政治的な反対派を収容し、虐待した最大の強制収容所の一つでした。ここには、2万から2万5000人の人々が収容され、多くが命を落としました。その中には、パウル・シュナイダー牧師という人物も含まれており、彼はナチスの暴力に抵抗し、信仰を堅持し続けた英雄的な存在として広く知られています。今日でも、この地に訪れる人々は彼の名前を記憶し、彼が示した勇気と強さを讃えています。

ライン川に沿ったドイツのフンスリュック地方は、穏やかな農村生活が営まれ、少数の人口を抱える村が散在しています。一方、この地方には北大西洋防衛軍のミサイル基地も存在し、そこではミサイルが東の空を見つめています。そんな地域で生まれ育ったパウル・シュナイダーは、この地の教会を守るために命を捧げた牧師でした。彼の父は厳格な牧師で、パウルに誠実さと真理を尊ぶ心を教え込みました。一方、常に病と戦っていた母は、喜びに満ちた人物で、パウルに歌の喜びを教え、美声を伝えました。

1911年に一家がヘッセン州のホーヘルハイムに移住した後、1914年にパウル・シュナイダーの母が亡くなりました。その後、彼は大学の医学部に進むための試験を受けましたが、第一次世界大戦に志願して参加し、重傷を負いました。戦後、彼はドイツの深刻な状況から国民の心の健康を考え、牧師になることを決意しました。青年時代の彼の信仰は自由で、父と異なる立場を持っていました。彼の信仰の強さは自身の不安や疑問、人間の弱さに対する祈りから深まり、神学の学びの中で神に自分の人生を全う委ねることを理解しました。彼は自分の人生と仕事の目的を見つけ、その目的に向けて全力を尽くすことを神に祈り、そのような視点を開き自由を得ることを願っていました。

パウル・シュナイダーはチュービンゲン大学で学び、寄宿した牧師の娘マルガレーテ・ディートリッヒと恋に落ち、後に彼女と結婚しました。パウルは信仰と神学に関して未解決の疑問を抱えながらも、牧師になるべく試験を受け、牧師試補となりました。その後、彼は重工業地帯であるルール地方へ向かい、初めて近代的な労働環境に直面しました。彼は肉体労働者として働き、資本主義社会の矛盾や労働者の社会主義的思想に対して深い理解を得ました。しかしながら、彼は人間の孤独や生活の苦難に対して深い思いを抱くようになりました。

パウル・シュナイダーは労働者として働き、その間に彼らから深い愛情と尊敬を勝ち取りました。その経験後、1922年10月に彼は父親の家で夏を過ごし、マルガレーテと婚約しました。その後、彼はソーストの牧師試補研修所に入りました。そこでの生活は、神学の勉強を総括し、教会への正式な赴任に向けて具体的な準備をする機会でした。この時期はパウルにとって決定的で、以前は批判的に聞いていた有名な神学者アドルフ・シュラッター教授の言葉の価値を認識しました。パウルは自由主義的な考え方から教会の伝統へ回帰する重要性を理解し、イエス・キリストの神性と救いの力への信仰を深めました。

また同じころの日記にはこう書いています。「人間の心にとって最もむずかしいこと、それは謙遜である。謙遜になれるのは、完全に自分自身の束縛からのがれる者だけである。われわれは自分自身を憎まなければならない。われわれの人生の最も暗く思われる時にこそ、それはまたわれわれを神に最も近づけるのである。われわれはそのために、神に最も深い感謝を捧げずにおれなくなるのである」。「感謝すべきことに、神はわたしの毎日をもう一度充実した日、としてくださり、あの荒涼たるむなしさから救ってくださったのである」。

1923年10月に牧師の資格試験を終えたパウル・シュナイダーは、社会的な混乱と不安が増大する首都ベルリンに向かいました。彼は、貧困に悩む市民の中に飛び込み、奉仕と伝道の活動を始めました。彼の信仰は教会の基本教義に立ち返ったもので、固定した教会の中に留まるよりも、悩み満ちた世界で直接神の働きに奉仕することを望みました。献身的に働く同僚たちから、キリストを生活の中心に置く真のキリスト教徒の姿を見、罪から救われた者たちの生活が「真実」であると深く感じました。しかし、自身の罪や固執、強情が自分を神から隔てていることを悟り、自分自身が教える側ではなく教えられる側であるべきと気付きました。

パウル・シュナイダーは酔っぱらいの世話をしながら、誇りを持ちすぎるとキリスト者としての道を見失うことを認識していました。彼は1924年に一時休暇を取り、弱っていた父を助けるために帰郷し、1925年に牧師の職に就きました。その後、エッセンで伝道活動を再開しましたが、父の死後、父が牧師を務めていたホーヘルハイムの教会に戻ることとなりました。1926年にはマルガレーテと結婚し、6人の子どもを授かりました。

シュナイダーはついに一つの教会に専念し、牧師としての生活を始めました。ホーヘルハイムと、さらに小さなドルンホルツハウゼンの教会を兼任する形で8年間、彼はそこに留まりました。しかし、この保守的な地域の人々との関わりや、父の後継者としての彼への期待は、彼にとって必ずしも幸せなことではありませんでした。彼らは古い信仰と生活習慣を強く保持しており、教会の仕事を「これまで通りに」進めることを求めていました。

パウル・シュナイダーは、新任の若い牧師として、人々から新しい改革を求められる一方で、自己疑念に悩むこともありました。彼の日記には、自分の行動や言葉に対する疑問と、その疑問が肯定的な結果に変わることを求める祈りが記されています。彼は真の福音を語り、福音に従う牧師となるために、祈りに力を求めました。彼の祈りの生活は一貫して続き、旧約聖書のダニエルの祈りについての説教では、「祈りは人間を神の前だけに服従させ、世界に対して神を告白する男らしい人間にする。生活と信仰のための戦いにおける神の力は、祈りによって得られる」と述べています。

シュナイダー牧師は、祈りを通じて教会の困難な状況を助けていました。彼の働きについて一人の女性が語っています。彼女が思い出すのは、3日3晩にわたりてんかんの発作に苦しむ青年のエピソードです。青年は医師や看護師の介入でも落ち着かなかったが、シュナイダー牧師が彼の病床に駆けつけ、長時間にわたって祈り、彼に話しかけると、青年は静かになり、やがて眠りにつきました。シュナイダー牧師はその後も青年の看護を続け、困難な夜でも必要とされるときには現れました。この体験を通じて、看護を担当した女性は祈りの力を体験しました。青年が亡くなる直前、彼は意識がはっきりとして「神さまとひとつだ」と言い、シュナイダー牧師に感謝の言葉を述べ、彼の腕の中で安らかに息を引き取りました。

シュナイダー牧師は、困難を抱える家族のために尽力していました。彼の言葉は時には厳しく、愛情深くもありました。例えば、酔っ払った男性に対して彼が無作法だと明確に指摘したことがありました。ある日、シュナイダー牧師はベルリンの旧友から保護された男性を女性の元へ連れてきました。男性の過去の生活について話すと、女性は恐怖を感じ、牧師にその男性を連れてきた理由を問いました。シュナイダー牧師は彼女に対し、「私たちが兄弟をこのように見るなら、主イエスは私たちをどのように扱うだろうか」と応え、彼女が彼の祈りを助けてくれると思っていたと述べました。これに対して、女性は恥ずかしさを感じ、固く閉ざされた心を捨て去ることを決めました。

シュナイダー牧師は病人だけでなく、失業や住む場所を求める人々の世話もしていました。彼の村に来るそういった人々を彼は度々支援し、場合によっては長期間住まわせることさえありました。彼は「真の社会主義は街頭からではなく、家庭から始まる」と手紙に書いていました。

しかし、シュナイダー牧師は真理の主張に対しては譲らなかったので、村の古い習慣との衝突が始まりました。例えば、教会員が年齢や性別により分けられ、各グループが年に2回特定の日に聖餐式に出るという習慣がありました。しかし、彼はこの習慣について深く考え、教会の長老会と話し合ったが意見は一致しませんでした。1933年のクリスマスに、彼はこの7年間守ってきた習慣を捨て、心から聖餐に参加するよう呼びかけました。しかし、多くの人が席を立ち、一人の長老までもが去りました。これが彼のこの地での最後の聖餐式となりました。

シュナイダー牧師は信仰の真実さと誠実さを求め、教会生活の各面において厳格でした。例えば、教会員同士がけんかをした際、シュナイダー牧師は聖書の教えに従い、二人が仲直りするよう仲裁しました。しかしながら、その後の聖餐式で仲直りを拒んだ一人が出席したため、シュナイダー牧師は彼を教会から去るよう求めました。彼が拒否すると、牧師は彼だけに向かって悔い改めを求めました。彼は町の有力者で、この時に立ち上がり教会を去りました。しかし後に彼が事故で身体を傷つけた後、彼はシュナイダー牧師のところへ来て初めて謝罪しました。

社会の不幸を見るにつけ、パウル・シュナイダーは社会主義に興味を抱いていましたが、政治活動には参加しませんでした。彼は政治の抗争に憂い、福音自体から政治行動の基準を探すことを模索し、教会の無力さを嘆きました。

ナチスが1933年に権力を握った時、シュナイダーは初めは喜び、ヒットラーが社会正義を実現すると信じました。彼は教会が国民の精神を正すことで責任を果たすべきだと考えました。しかし、地元のナチス支部長が教会に対して独自の要求を行い、教会の青年会を廃止しヒットラー青少年団だけを残すよう提案したため、シュナイダーは怒りを感じました。彼はナチス式の挨拶をせず、ユダヤ人排斥を誤りだと考え、キリスト教徒であることの証明書を書くことを非常に嫌いました。

パウル・シュナイダーは、ナチスに同調するドイツキリスト者というグループが教会内に現れた際、初めて積極的な関心を持ちました。しかし、ナチス指導者レームがキリスト教を「迷信」と言い放つと、彼は公に反論し、告発されました。彼の地区は彼に休暇を与え、逮捕を回避しましたが、彼はナチスと教会の対決を避けることが許されないことを理解しました。

シュナイダーの反ナチス立場は強くなり、1934年に彼はナチスの宣伝を公に批判し、教会がナチスの脅威と戦うべきだと説教しました。この頃、ドイツキリスト者に対抗する告白教会の運動が全国で始まり、シュナイダーもこれに加わりました。

しかし、地元の教会は彼の厳格さに反発し、彼は転任を余儀なくされました。1934年4月25日、シュナイダーはその町を去りましたが、多くの教会員が彼の去り行く姿に涙を流しました。

パウル・シュナイダーは美しい農村、ディッケンシートに転任し、ヴォムラートの隣村の教会でも奉仕しました。ここは告白教会に所属する教会が多く、シュナイダーの立場を理解し、彼を支持しました。しかし、彼がそこで牧会する期間は短かった、なぜなら急速に力を増していたナチスとの対立がすぐに激しくなったからです。

彼が新任地に赴いたのは1934年5月で、すでに1ヶ月後に初めての対立が発生しました。ナチス活動に参加していた故人の葬儀で、ナチスの団体が神話的な運命信仰とキリスト教信仰を混同した弔辞を述べたため、シュナイダーは抗議しました。彼は聖書の教えを純粋に語る責任があると強調しました。しかし、ナチスの指導者たちは彼の礼拝に参加せず、行進して去っていきました。これは、シュナイダーがナチスに対して宣戦布告する形となりました。

パウル・シュナイダーはナチスとの闘争を望んでいませんでした。ナチスとの対立後、彼は個人的に話し合うためにナチスの指導者を訪れ、自分の真意を伝える手紙を書きました。彼が正しくキリストの信仰を貫こうとする努力を尊重するよう求めましたが、3日後、彼は国家警察に逮捕され、一週間留置されました。釈放後、彼は警察に向けて反国家的な人間ではないと書きましたが、牧師としての彼の義務と信仰告白が反国家的と見なされるなら、それを止めることはできないと述べました。

シュナイダーが担当していたディッケンシートとヴォムラートの教会は、小さな教会で、村の人口の大部分はカトリック教徒でした。しかし、この小さな教会は長老会の指導のもとで一致し、新任の牧師を助けました。彼らは改革派教会の信仰の美しい表現であるハイデルベルク信仰問答を重視しました。

シュナイダーはスイスの神学者カールーバルトの『ローマ書』を徹底的に学び、教会は告白教会に正式に所属することを議決しました。しかし、告白教会に所属する牧師が辞めさせられた際、反対する教会はほとんど資金援助を受けられませんでした。それにも関わらず、教会員は共同で牧師を支え、結果的に辞任させられた牧師は復帰しました。

1935年3月、パウル・シュナイダーは再度逮捕されました。告白教会グループがナチスとドイツキリスト者の過激な民族主義が神の教えに反すると宣言し、この宣言を各教会で朗読するよう要求したためです。国家はこれに反対し、署名を拒否した約500名の牧師が逮捕されました。シュナイダーも逮捕されましたが、彼の逮捕期間は長くはありませんでした。

しかし、その後もシュナイダーと政府との緊張は続きました。1936年の総選挙では、彼は教会が政府を祝福することはできないと声明を発表しました。彼はナチスの政策が正しい福音に反していると述べ、ドイツの運命は軍事力ではなく神の言葉によって決定されるべきだと主張しました。また、神の言葉を生活に反映させることや公立学校でのキリスト教教育が困難になってきていると指摘し、教会が神の栄光のために勇敢に戦うべきだと訴えました。

復活祭の日曜日、シュナイダー牧師の家の壁に「この家の者は選挙に出なかった、祖国よ、民族よ、これをどう思うか」と書かれましたが、教会員たちが翌日それを消しました。しかし、教会に対する反感はエスカレートし、ヴォムラートの一人のナチス党員が彼の息子をシュナイダー牧師の教会から引き離し、ドイツキリスト者の教会へ移すという事件が発生しました。

それに対し、長老会は新約聖書とハイデルベルク信仰告白を根拠に、教会の規則を破った人々に対して警告を発し、聖餐への参加を禁じ、罪を悔い改めることを要求しました。そして、特にドイツキリスト者の誤りを指摘しました。シュナイダー牧師も同様の趣旨の文章を書き送りました。しかし、その文章はナチス党員によってシュナイダー牧師を警察に告発する証拠とされ、シュナイダー牧師が反国家的な宣伝を行っているとの主張に使われました。

シュナイダー牧師の第三回逮捕は1937年5月31日になりました。それまでの時間、彼はオートバイ事故で足を折り入院していましたが、退院後もギプスをつけたまま説教を続けていました。逮捕された彼はコプレンツの警察署に留置され、新聞では彼が説教壇から農民を扇動し、国家に対するボイコットを呼びかけたと報じられました。今回の逮捕では家族との連絡が制限され、しかし彼は初めて家族に送った手紙で、どんな困難に遭遇しても耐え抜くことで、キリスト者らしい服従の証を示すと書きました。

約2ヶ月の拘留期間中、シュナイダーは祈りに集中しました。彼は古い包み紙に祈るべき事柄や教会員の家庭の名前を書き記しました。また、同じ牢獄にいたナチス党員が死者の復活について尋ねると、彼は30分間、復活と希望について語りました。しかし翌日、彼は強く脅され、家族との連絡が罰として制限されました。

1937年7月25日、シュナイダー牧師は突如、彼の夫人へ手紙を送りました。「わたしは今ヴォムラートにいる!ラインラント州から退去せよとの命令を受けたけれども、わたしはここで説教する。勇気があるなら来ておくれ!」と。夫人は教会へ行き、そこで夫と長老たちが話し合っているのを見ました。その日の教会の鐘の鳴り方は、シュナイダー牧師の逮捕以来の悲しみの象徴であった一つ鳴りから、全ての鐘が鳴り響く喜びの音へと変わりました。

しかし、シュナイダーの復帰は深刻な事態に隠されていました。彼はラインラント州からの追放命令を受けたにも関わらず、その命令に反して教会へ戻って説教を行いました。彼は、自分が村の人々に国家を無視するように仕向けたことなど一度もなく、不当な逮捕とそれに基づく追放命令は根拠がないと説明しました。それにも関わらず、警察は彼を強制的に車に乗せ、ヘッセン=ナッサウ州のヴィースパーデンまで連れていき、そこで釈放しました。彼は自らの道を選択し、命令を破り教会へ戻りました。シュナイダーは神から、そして教会員から深い信頼を寄せられていると信じており、その信念は彼の行動を導いたのです。

シュナイダー牧師の足の傷は獄中生活により悪化し、一時保養のために友人に連れられてパーデン-パーデンに行きました。そこで家族と過ごした平和な時間の中で、彼の信念は固まりました。特に旧約聖書の士師記第5章一8節に心を打たれ、ゼブルンとナフタリの部族の「死を恐れぬ民」としての姿に影響され、再び教会に戻ることを決意しました。その決意に対する彼の深い愛情と悲しみは、家族の賛同を得ることとなりました。

シュナイダーの信念は彼自身の説教からも見て取ることができました。特にルカ福音書第18章35節以下の盲人の乞食の物語について語った説教にその表れがあります。彼は人間がこの世の盲の乞食であり、この世の喜びではなく主イェスのあわれみを求め、主イェスの十字架の道の栄光を見ることを願い続けるべきであると説きました。

シュナイダーの誕生日には、家族と一緒に祝いましたが、それが最後の家族的な祝いの集まりとなりました。告白教会は彼を励まし、彼の決断を支持しました。彼の教会であるディッケンシートとヴォムラートの長老会からは、帰り教会の牧会を再開するよう彼に求める手紙が送られ、教会員は政府に追放命令の撤回を求める署名活動を始めましたが、署名は最終的に当局に没収されました。

シュナイダー牧師は家族と別れ、10月1日に帰途につき、3日の感謝祭に教会で説教するためです。彼の旅の途中、親せきの家での滞在中、彼が危険を冒して教会に戻る理由を問われた際、彼は「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」という聖書の節を読み上げ、その言葉が指し示す主イェスを示しました。

彼は10月3日の日曜日に牧師館で休み、家族と静かに過ごした後、教会で説教を行いました。詩篇第145篇15-21節について語り、自分の口で主を告白し、感謝する道を歩み続けることを教会員に訴えました。

礼拝後、彼は家族と共に静かな時間を過ごしましたが、その日の夜、夕拝に向かう途中で逮捕されました。シュナイダー夫人はすばやく聖書と讃美歌だけを彼のポケットに入れることができました。翌朝、夫人が警察に訪れた時、シュナイダーは留置所から「神はわがやぐら」という讃美歌の口笛を吹き、自身がまだディッケンシートとヴォムラートの牧師であることを伝えるよう頼みました。

パウル・シュナイダーは9月30日、予防拘禁という制度で逮捕される可能性を理解しながら、彼自身が危険な人物であるという証拠が提示されていないことを政府に手紙で問い詰めました。シュナイダーは、この状況を告白教会とイエス・キリストの教会に対する迫害と捉え、国家が牧師をその教会から切り離すことは許されないと主張しました。彼は、すべてを神の審判に委ね、国家と教会がそれぞれ神から与えられた使命について神に報告しなければならないと結びました。

シュナイダー牧師が逮捕された後、教会の長老会は彼の立場を支持し、彼の手紙を政府に送りました。この手紙では、シュナイダーが、教会の長老や教会員が神に対する忠実さを保つために、国家の命令に逆らう可能性があると述べていました。教会はこれを支持し、不当な圧力を止め、牧師を返すよう政府に強く求めました。

パウル・シュナイダーは約2ヶ月間、ゲシュタポ(秘密国家警察)によりコプレンツで留置されました。彼はその間、聖書を学び、祈り、多くの手紙を書きました。それらの手紙は時に詩的、時に愛情深く、彼の日常生活や学んだ教訓を家族へ綴りました。彼の手紙からは、自身が強制収容所に送られる運命を予感していたことが伺えます。そして、11月下旬、彼はプーヘンヴァルトに送られることとなりました。

彼の夫人は彼に別れを告げるため、10歳と8歳の息子たちと共に訪れました。その時、待降節にちなんで緑の葉で作られたリースを持ってきました。シュナイダーはそのリースを独房に持ち込み、そのろうそくの光で待降節の歌を読んだと言われています。彼の妻は、夫が退去命令を受け入れさえすれば釈放されることを知り、感動して涙を流しました。彼女は夫に愛情を伝え、その日の聖書日課を読み上げました。それから彼らはともに主の祈りを唱えましたが、結局シュナイダーは連れ去られました。

パウル・シュナイダーとその妻は、彼が強制収容所へ移送される前に再び会うことができました。パウルは彼が個人的に慰めを見つけた待降節の歌を歌い、日常の話題を語りました。その間、別の夫婦と彼らの聖書研究グループも最後の別れを告げに来ていました。その後、全員が同じ収容所に移送されることになりました。

シュナイダー牧師の収容が、教会員の心を深く揺り動かしました。その待降節の最初の日曜日に、代理牧師は詩篇130篇について説教しました。「主よ、私は深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、私の声を聞き……」。毎晩、教会員が牧師館に来て、シュナイダー牧師の妻とともに祈りの集まりを持つことを始めましたが、政府の圧力によりこれが停止されました。それにもかかわらず、教会は週一度の祈祷会を設け、夫人がナチスへの忠誠を誓うことを拒否し続けました。そして、シュナイダー牧師からの手紙が少しずつ届き始め、彼の精神力と信仰の維持を伝えていました。

1939年7月、パウルは妻に書いています。「13年まえの新婚旅行の喜びをくり返すことができたらどんなによいか、と神に祈り求めています」。

これが最後の便りになったのでした。そのころすでに彼の肉体は疲れきっていたのです。

1897年生まれのパウル・シュナイダーが死去し、その遺体はヴァイマールの収容所から受け取られるべきという電報が届いた。シュナイダーの死因は、長期にわたって弱っていた心臓に多量の強心剤が打たれた結果だとされる。彼の遺体はディッケンシートに移され、教会に安置する予定だったが、警察により途中で留め置かれた。遺体が到着した時、村の人々は教会に集まり、大規模な葬儀を執り行った。その後、彼は村の墓地の素朴な木製の十字架の脇に埋葬された。シュナイダーは獄中でも聖句を生きていたと伝えられ、乏しい食事をさらに減らして断食し、余った食事を共囚に分け与えていた。彼は囚人たちに希望を与え、自殺を考えていた囚人が彼の言葉を聞き、命をつなぐ決意をしたという証言もある。

シュナイダーは収容所で大声でも小声でも福音を伝え続け、打ちひしがれた人々に神の慰めを語り、多くの人が彼から慰めを受け取りました。その中には、共産主義者であった囚人も含まれていました。収容所はシュナイダーの声を黙らせるために力を尽くしたものの、彼はつねに他の囚人たちに対する愛と奉仕を忘れませんでした。彼を見た人々は、彼の苦しみに満ちた身体を見て、ビラトがイエスを指して「見よ、この人だ」と言った場面を思い起こしました。シュナイダーは収容所で虐待を受け、その身体は痛みと苦しみに満ちていました。しかし、その姿は崇高で、イザヤ書の「苦難のしもべ」の姿を思い起こさせました。彼はナチスによって殺された最初の牧師でした。