1893年愛媛県に生まれる。1917年東京帝岡大学法科大学政洽学科卒業後,同大学経済学部に奉職。

1937年平和論のため辞職,1938年から雑誌『嘉信』を発行し,平和を説く。1945年同大経済学部に復職,

1951年より総長を勤め,1961年死去。

矢内原忠維は1893年に医師の子として愛媛県で生まれ、神童と評されるほどの資質を持ちました。その才能を父に見込まれ、神戸の親戚に預けられて教育を受け、12歳で中学校に進学し、高等学校を無試験で入学するほどの優秀さを見せました。第一高等学校では新渡戸稲造の影響を強く受け、内村鑑三の無教会信仰に触れ、生涯を左右する信仰を持つようになりました。

1913年に東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、吉野作造や新渡戸稲造の講義に影響を受けましたが、学生時代に両親を失い、家庭の財政が困難になりました。それでも弟妹や祖母を助けるため、多くの卒業生が官途に就く中で、民間企業の住友総本店に入社し、地元近くの別子鉱業所で働きました。

1917年にキリスト教集会に参加し、結婚した後、同僚や弟妹に自身の信仰を伝えるために『基督者の信仰』を著しました。1920年に東京帝国大学経済学部の新渡戸稲造教授が辞任すると、彼の後任となり、植民政策講座を担当しました。留学を経て帰国した後は植民政策の研究と日本の植民地の現地調査旅行に没頭し、教授として精力的に研究を行いました。

昭和5年(1930年)は矢内原忠維にとって転機となる年でした。信仰上の恩師である内村鑑三と、義兄でもあり信仰上の先輩である藤井武が相次いで亡くなり、これがきっかけとなり、学問的な活動に加えて信仰活動にも深く取り組むようになりました。彼は内村鑑三記念講演を行い、藤井武全集の編集を引き受け、その信仰を強く継承しました。

この時期は日本でマルクス主義が注目を浴び、国粋主義の運動も活発でした。矢内原は、社会科学的な植民政策研究と信仰を通じて、これらの動向に対抗しました。1932年、満州国視察旅行中に匪賊の襲撃を受けながらも一命を取り留めた彼は、個人誌「通信」を創刊しました。しかし彼の平和論は、結果的に1937年に東京帝国大学経済学部教授の辞任に繋がりました。

昭和8年から昭和12年にかけて、矢内原忠雄は国家観念や日本主義への批判を含む一連の講演を通じ、キリスト教の立場から日本国の理想を訴えました。その思想は、彼が東京帝国大学経済学部教授を辞任させられる原因となりました。教授辞任後、彼は昭和13年から個人雑誌「嘉信」を創刊し、キリスト教信仰と社会科学の融合に基づいた個別の教育活動を展開しました。これには、聖書研究会、土曜学校、公開聖書講義、年次の夏季聖書講習会が含まれていました。彼の熱意は戦時中も続き、各地で開かれる公開聖書講演会に出演し、また昭和15年には朝鮮、昭和17年には満州・北支への講演旅行も行いました。終戦後、彼は日本国民が敗戦を受け入れるための講演を行い、東京帝国大学の教授職に復帰。その後、同大学の経済学部長、教養学部長を経て、昭和26年には東京大学の総長に選ばれました。彼は昭和36年に胃癌で亡くなりました。

矢内原は神戸中学校の優等生として、家業の医者を継ぐべく医学を志すも、校風を論じる演説を通して愛校心を育みました。しかし、3年先輩の川西実三から影響を受け、医師の道から転じ、法科を志すようになります。一高に入学後、基督教的な内省の空気に触れる中で、疑問や苦しみを抱えながら信仰の道を学んでいきました。

高校2年生の時、内村鑑三先生の娘の告別式での経験が彼の心に深い衝撃を与え、基督教への真剣な関心を生むきっかけとなります。その後、母と父を短期間で亡くし、死と罪の苦しみを通して更に信仰を深めました。しかし、キリスト教徒の来世についての理解と、キリストを知らぬ者の死後の運命との間で深い悩みを抱きました。その問いに対する明快な回答が得られなかったとき、自ら信仰の道を歩む重要性と、神に依存することの大切さを学びました。この教訓は彼にとって深く重要なものとなり、信仰生活を正しく進めることの必要性を痛感しました。

矢内原忠雄はキリスト教信仰に触れ、特に罪の苦しみについて深く考えました。明治時代の日本では自己の探求や旧式習慣の破壊の方向性が生まれ、伝統主義への批判が高まっていました。これは学問の場でも見られ、特に一高内では、自由主義者である新渡戸稲造校長排斥問題として顕著でした。矢内原は新渡戸校長を尊敬し、罪の苦しみを扱った彼の立場は、伝統主義を批判する自由主義・個人主義の純粋な面を示しています。

矢内原の思想には悲しみが深く組み込まれています。彼は「悲しみの無い人生は乾燥し、悲しみは人生のうるおい、永遠への窓、神への道しるべである」と述べました。彼の体験した罪の苦しみと死の悲しみがその考え方に影響を与え、妻と子の死を経験した彼は、悲しみの中で人の罪を知り、神から直接教えを受ける信仰を学びました。

彼は悲しみが神の恩恵であり、喜びを追求する人間の性に反して避けられない事実であると理解していました。悲しみは人の求めて得たものではなく、神が与えた試練として捉えていました。矢内原は、悲しみは全く人の求めるものではないため、その祝福が完全に神の恩恵であると結論付けています。

矢内原は、昭和20年に書いた「戦の跡」で学問と信仰が一致したことが彼自身を戦争に対立させたと述べています。満州問題を視察した結果、日本側が悪いと確信し、この確信は彼の学問と信仰を結びつけ、それが彼を対立させました。彼の信仰は内村鑑三や新渡戸稲造の影響を受け、科学や学問は吉野作造や新渡戸先生の研究から受けた影響によるもので、これらの組み合わせが彼の力となりました。

また彼は、戦争や暴力を用いて弱者を圧迫するのは科学的な結果からも、そして道徳的にも不正義であり、真の人類の発展につながらないと信じていました。彼のこの考えはキリスト教の信仰と一致し、これが彼の平和についての基本的な考え方でした。

彼の考えは、道義論に見えますが、その背後にはキリスト教の信仰に立つ非戦論と、世界の各国が経済法則に従って発展するという理論がありました。彼は、戦争や侵略が経済的利益をもたらすとは限らず、暴力的であるため反対したのです。これらの考えが「学問と信仰の一致した力」として強調され、彼自身を戦争に対立させたと説明しています。

内村鑑三の時代(明治・大正)と矢内原忠雄の時代は異なり、それらは信仰と国家社会問題との緊張関係に影響を与えました。内村は近代日本の建設の礎をピューリタンの国家建設に見ましたが、矢内原の時代は帝国主義的な日本が進行する時代でした。

矢内原はマルクス主義の視点から植民地現象を考察し、その後彼の視点は『マルクス主義と基督教』の出版に結実しました。彼はここで、マルクス主義が社会科学上の発展法則を主張する一方で、その世界観についてはキリスト教のものと対比し、キリスト教の方がより徹底していると論じました。

矢内原はまた、経済学部の河合栄治郎教授の理想主義を批判し、それが人格の完成を諸欲望の円満なる調整とすることについて疑問を提出しました。矢内原は、その批判を通じて、理想主義とキリスト教信仰が一致すると考える視点に対して異議を唱えました。

また、彼の著作は、当時の社会的キリスト運動に影響されたキリスト教に対する批判でもありました。この著作を通じて、彼は無教会信仰との対立を明確にし、内村鑑三の死後も無教会主義が滅びずに続くことを証明しようと試みました。最後に、矢内原は、朝鮮人迫害に対する抗議を通じて、内村の理念を継承しようとしたのです。

無教会主義の主張は、救いは信仰によって得られ、それが福音の時代、すなわち、個々の霊の救いを重視する時代の中心にあるとするものです。これは、教会主義や社会的批判から距離を置いています。一方で、矢内原は、宗教の役割について「個人的か社会的か」という観点から議論を開きます。彼は、宗教は個人を救うものであり、それが本質であることを認めつつ、個人の救いが個人的な慰めとなり、結果として宗教が人物崇拝集団に堕落する可能性を警告します。そして、宗教が堕落するのを防ぐためには、個人の救いを公的な精神で捉え、宗教が社会的・政治的な役割を果たすべきだと主張します。さらに、彼は宗教が霊的であるからこそ、この世の権力からは独立し、社会を批判する力を持つと強調します。その上で、我々は社会公共の問題に対して真摯に向き合い、それを宗教生活の中心に据えるべきだと提言します。

矢内原は、日本のキリスト教について二つの要点を強調しています。

第一に、彼は天皇、特に現人神としての天皇について論じています。彼の見解では、天皇を現人神と見る信念は国家とその位格においてのみ妥当であり、現実の天皇の人間性や個々の生活には当てはまらないと主張しています。キリスト教の超越的人格神概念から見て、この「現人神」の主張は批判の対象となるでしょう。

第二に、彼は無教会主義信仰の課題について言及しています。無教会主義が二代目のリーダーによって強く推進されることは当然の事といえますが、その対立が激化すると、キリスト教内部の共通の敵を見失う危険があると彼は警告しています。

また彼は、「旧約の日本」を「新約の日本」へと進化させるためには、旧来の思想の精髄を保存しながら虚偽と迷信を否定し、清掃しなければならないと提唱しています。この過程で、苦難はキリスト者の運命となり得ると彼は語っています。

最後に、日本的基督教の樹立には、日本的迫害を伴う日本的苦難が必要であり、その中で国家主義への具体的な抵抗が求められると主張しています。これは日本的基督教が、国家観念を保存しつつ、その反動としての国家主義に対抗しなければならないという彼の見解を示しています。

戦後の矢内原忠雄は、日曜集会や『嘉信』の出版を続け、大学の権威を保つ姿勢を見せつつ、東京大学総長を務めました。彼の任期は戦後の調整期と重なり、その後の技術革新、貿易自由化・高度経済成長、資本の自由化・合理化の時代に対応する総長に引き継がれました。戦後東京大学は戦争協力者をパージし、平和主義学者を尊重しました。初代総長南原繁と矢内原は、どちらも戦時中に体制外で活動し、平和主義を掲げていました。戦後東大が二人のキリスト者を総長に選出したことは、キリスト教の信仰の質が重要であることを示す事例として重要で、プロテスタントは明治以降、知識階層に重点を置く一方で信仰の質を問う姿勢を保ち続けました。