
平和を実現するためには、様々なアプローチがありますが、今日人々が考えているものとしては、大きく分けて3つの考え方があります。それぞれの視点から、具体的な行動や考え方を探求することが求められています。
- 自国の国民と領土を守ることを重視します。
- 軍事力や経済力を強化し、外部からの脅威に対抗します。
- 外交交渉や同盟関係を通じて、国益を追求します。
- 安全保障を最優先に考え、紛争を未然に防ぐことを目指します。
- 自由民主主義を理念とし、国際協調を通じて平和を追求します。
- 国連などの国際機関を重視し、多国間協力を通じて紛争解決を目指します。
- 人権や民主主義を尊重し、国際的なルールに基づいた秩序を構築します。
- 経済制裁や国際裁判など、非軍事的な手段で平和を維持しようとします。
- 世界はひとつという考え方から、国籍や民族に関わらず、すべての人々の人権や安全を重視します。
- 人間の安全保障の概念を重視し、貧困、飢餓、環境問題など、人間を脅かす様々な問題に取り組むことが重要です。
- SDGs(持続可能な開発目標)のように、地球環境問題や社会的不平等を解決することで、より良い未来を築くことを目指します。
特に、国際連盟や国際連合が作られるようになってからは、世界全体がグローバリズムの考え方に傾いてきているように思われます。しかし、国連や国際機関の働きを見て来ると、それは必ずしも平和の実現のために貢献してきたとはいえず、むしろ超大国の思惑によって動いているために、国家や人々の間の格差を拡大したり、不条理な戦争を容認したり、平和を創り出すとは言えないようなことが続いています。
近代において起こってきた戦争のほとんどは、必要のない無意味な戦争でした。
この自然界には驚くべき調和と秩序があり、およそ人間以外の生き物は、互いを生かし、支え合ってその暮らしを紡いでいるように思われます。人間だけが、あたかもがん細胞のように他国を侵略したり、自然を破壊したり、生命を破壊しているように思われます。
そのような人間のためにも、神は、今日も太陽を照らし、雨を降らせ、あらゆるものを生かし育んでいてくださいます。
そのような神を知り、ひとりひとりが神の前にひれ伏すことが、平和を創り出す出発点になるのではないかと思います。人間があたかも主人であるかのようにふるまい、各々の欲望や利益のために生きるところでは平和が生み出されることはありません。
聖書においてイエス・キリストは、「あなたの隣人を愛せよ」と言われました。そして、「隣人とは誰ですか」と尋ねる律法学者たちに、「よきサマリヤ人」のたとえを教えてくださいました。ファリサイ派の人たち、律法学者と言われている人たちは、隣人とは自分たちの周りで意見の合う仲間同士が隣人だと考えていました。イエス・キリストはよきサマリヤ人のたとえにおいて、怪我をして、持ち物を盗まれて倒れている人(ユダヤ人)がいました、そこにやってきた祭司やレビ人は同じユダヤ人である怪我をした人が倒れていても助けようとはせず、見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。その次にやってきたサマリヤ人は、怪我をして倒れている人をかわいそうに思い、介抱して、宿屋まで連れて行ってそのための代金を払い、「この人をみてあげてください。お金がもっと必要であれば帰りがけに払います。」と言ったのです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は口も聞こうとしないような憎しみ合う関係にありました。
イエス・キリストはこのたとえ話をお話になった後で、律法学者たちに尋ねるのです。「誰が怪我をして倒れている人の隣人になったのか?」彼らが、倒れている人を介抱したひとです、というと、「あなたも行ってそのようにしなさい」と言われたのです。平和を実現する道はこうしたところにあるのではないでしょうか。そのためには、何よりも自分自身のことが問題になります。