日本初の知的障がい者教育の創始者・石井筆子

     いばら路を知りてささげし身にしあれば            いかで撓(たわ)まん撓むべきかは

【いしい ふでこ】1861年(文久1年) -1944年 (昭和19年)
日本の近代女子教育者で、石井亮一と共に日本初の知的障害者教育を創始。

肥前国大村藩士・渡辺清の長女として生まれる。
父・清は明治維新の志士であり、新政府の元で福岡県令や元老院議官等を歴任、男爵に叙せられた。叔父の渡辺昇も維新の志士として坂本龍馬と共に薩長同盟結成に尽力、子爵に叙せられた。昇は鞍馬天狗のモデルという説もある。

筆子は、東京女学校卒業後、皇后の命で津田梅子らと共に日本初の女子海外留学生として渡欧。帰国後は華族女学校のフランス語教師となる。貞明皇后もその教え子であった。
3ヶ国語を使いこなし、社交界では「鹿鳴館の華」と呼ばれ、前アメリカ大統領のグラント将軍来日の際に、将軍から「日本で最も聡明な女性」と言われたという。
のちに静修女学校の校長にも就任。渋沢栄一の娘・歌子らの力添えで、近代女子教育者としても活躍。(その後、静修女学校は津田梅子主宰の女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となっている) また筆子は、父と叔父の勧めで高級官吏であった小鹿島果と結婚。その際、父達から天使のエンブレムの付いたピアノをプレゼントされた。

何もかもが順調で、恵まれているかに見えた筆子だったが、3人の娘達の健康に問題があった。長女・幸子は知的障害を持ち、次女・康子は虚弱児で生後まもなく亡くなり。三女・恵子も結核性脳膜炎になり死亡、夫の果も35歳の若さで逝去。相次ぐ苦難が襲う。

筆子は苦難に立ち向かいつつ、静修女学校校長としての仕事を続けるが、長女・幸子を石井亮一が創設した滝乃川学園に預けたことから、学園の支援をするようになる。そして支援活動を続けるうちに、亮一の活動と人間性に深く感銘を受ける。筆子は親族の反対を押し切って亮一と再婚。残りの生涯を、夫と共に、当時まだ周囲から理解されず酷い仕打ちを受けていた知的障害者達の保護と自立教育のために捧げる。

資金難や伝染病、学園の火災など度重なる試練や困難を乗り越えながら、筆子と亮一は、障害児教育と滝乃川学園の発展に力を注ぎ、亮一の死後は、筆子自ら日本初の女性園長として学園を守り 第二次世界大戦さなかの昭和19年、僅かな人に看取られながら昇天した。

石井筆子

 

東京・国立市にある知的障害者の福祉施設・滝乃川学園の倉庫に、天使のエンブレムがついた古いピアノが眠っていた。それは初代園長・石井亮一の妻・石井筆子が、愛用していたものだった― 。

長崎・大村の隠れキリシタン弾圧のさなか、海岸で遊んでいた幼き筆子は、血を流しながら連行されてゆくキリシタン達を目の当たりにし、幼い心を痛める。

成人後、海外留学を経験し三カ国語を自由に話せるようになった筆子は、「鹿鳴館の華」と呼ばれた才媛であった。 華族女学校で教鞭をとり、後の貞明皇后もその教え子となっていた。 また、筆子は父と叔父の勧めで、大村藩家老の子息・小鹿島果と結婚。親友の津田梅子らと共に女性の自立教育にも動き出し、当時の女性達の中でも、ひときわ輝いている存在であった。

しかし、そんな筆子に試練が襲いかかる。授かった長女が知的障害を持ち、次女は生後十ヶ月で亡くなり、三女は結核性脳膜炎、続いて夫・果も結核で亡くなるなど相次ぐ苦難が襲ったのだ。どん底に突き落とされる筆子……。

そこに一脈の光がさしたのは、孤女学院を運営していた石井亮一との出会いであった。筆子は亮一との出会いを通して、自分が本当に進むべき道を見出す。それは険しい茨の道であった。しかし筆子は天から指し示された道と信じ、様々な困難と闘いつつも、亮一と共に日本初の知的障害者の施設・滝乃川学園の運営に乗り出していく……。

石井筆子と亮一が生涯をかけて取り組んだ知的障害児教育と滝乃川学園の創設。その一粒の麦、たった一つの施設で始めた日本知的障害者福祉協会が、現在では四千五百以上もの施設となって多くの実を結び、知的障害者の人権回復の先駆けとして、あまたの母達に〝この子達のために″と運動をしていく元気を与えてくれている。