1841年栃木県に生まれる。栃木県会議員などを経て、1890年第1回衆議院議員選挙に栃木県から選出され,以後連続当選。国会で足尾鉱毒事件をとり上げ、被害地農民のために半生をささげ戦い続けた。治水問題に奔走中1913年死去。
1901年、田中正造は国会で「公害亡国」を宣言し、政府と企業のエゴを非難しましたが、彼の警告は無視されました。その結果、日本は公害問題で苦しむようになり、全国で環境破壊と公害病が発生しました。車の排気ガスや不適切に使用された農薬により自然環境が破壊され、食物と一緒に人間の体内には有害物質が蓄積され、健康被害が増大しました。
世界一の経済成長国である日本は、同時に世界一濃いスモッグに覆われ、公害による健康被害が広がりました。田中正造は公害の原因となる足尾銅山の鉱毒事件に対して一生をかけて戦い、キリスト教の教えを身をもって体現しました。彼の抗議行動は国家により非国民とされましたが、真に国を救おうとする愛国者であり、彼の警告が受け入れられていれば戦争も公害も防げたかもしれません。
田中正造は、1841年に栃木県の農家で名主の家系に生まれました。社会悪に対する強い責任感と正義感を持ち、彼は悪官吏と闘うために何度も拘置所に収監されました。明治初期、自由民権運動に参加し、新聞を創刊して社会悪を批判し、国会議院開設のために演説会を開き、署名運動も行いました。その後、最初の衆議院議員選挙で当選しました。
彼が最も闘ったのは、足尾銅山の鉱毒による渡良瀬川の汚染でした。清流であった渡良瀬川はその肥沃な沖積土と豊かな漁場で周辺住民に恵みをもたらしていましたが、近代産業化による足尾銅山の開発はその恵みを奪い去りました。
明治時代に古河市兵衛が鉱山を政府から借り受けて近代的な機械を導入すると、鉱山から排出される毒素によって渡良瀬川は汚染されました。魚が死に絶え、生き残った魚も食べると病気になるほどでした。政府が早い段階で対策を講じていれば、ここまでの汚染は避けられたかもしれませんが、政府は逆に問題を提起した地元の知事を左遷しました。
鉱山開発により山が裸になり、雨が降るたびに洪水が発生し、豊かな生態系は荒廃しました。飲料水が汚染され、新生児は生存力を失い、生きている子供たちは体が弱々しく、成人男性でも老化現象が顕著に見られました。地元の農民は鉱毒の影響に恐怖し、「犯人は足尾銅山だ!」と認識しました。
1889年と続く年の洪水で、栃木、群馬、埼玉、千葉の各県の83町村は鉱毒の泥海と化し、被害を受けた農民たちは政府に対し、鉱毒除去の策を講じるか、足尾銅山の操業を停止するよう訴えました。しかし、政府は企業を保護し、渡良瀬川沿岸の51万7300余の農民を見殺しにしました。
田中正造は政府と企業の不義に怒りを感じ、「人命無視」だと非難しました。そして、彼は国会議事堂の壇上に立ち上がり、この社会悪と政治悪を公に告発しました。
古河市兵衛は足尾銅山の社長で、明治時代の重要な人物でした。京都生まれの彼は、鉱山を政府から借り受け、欧州の最新技術を導入して採鉱を開始しました。農民たちが鉱毒問題を提起した際、彼は政府の重要人物を養子や副社長として迎え入れ、その財力と権力を利用して政府、国会、地方行政を巧みに操作しました。
古河はまた、抗議精神の象徴として自身の髪型を保持し、その反骨精神を示しました。鉱毒問題によって妻が自殺した後も、彼は事業拡大を続け、多くの企業を設立または買収し、古河財閥の基礎を築きました。
対する田中正造は、社会悪に対する適応力があり、勝利の可能性を計算するよりも社会的正義を求める人物でした。しかし、戦闘はただ勇敢であるだけでは勝てないため、彼は早稲田大学の学生左部彦次郎を調査のために派遣し、被害状況を詳細に確認することを決定しました。
1891年、田中正造は帝国議会で足尾銅山鉱毒問題を取り上げ、強烈な質問を行いました。彼は和服を身にまとい、壇上から大きな声で政府の答えのなさを批判しました。彼は鉱毒が農地や漁業にどれほどの被害を及ぼしているかを具体的に語り、政府当局の責任を厳しく問いました。
正造は調査に基づく詳細な情報と共に、ユーモラスなトーンも交えて話し、聴衆を引きつけました。彼は内務大臣と農商務大臣に対する批判を繰り返し、特に、農相の陸奥宗光が足尾銅山のオーナーの養子を迎え入れた事実を指摘し、公私混同と請瞑運動(見逃し運動)の存在を糾弾しました。彼の激しいスピーチは2時間以上続き、その後、彼は壇を降りました。
1892年(明治25年)、政府は海軍大臣樺山資紀の「大艦艇建造案」への野党反対に対して議会解散と総選挙を行いましたが、不当な選挙干渉による混乱が発生しました。その結果、自由党と改進党が政府と与党を脅かす勢力を持ち、正造も当選しました。選挙後、政府は内務大臣と農相を交代させました。
正造は同年5月に再び鉱毒問題を取り上げ、農相の放任を批判しました。しかし、新農相の河野は被害を認めつつも政府の対策を打つ考えがないと冷淡な返答をしました。これに対して正造は再び壇上に立ち、政府と鉱山業者の癒着を批判、国民の生命と職を守るべき政府の責任を問い質しました。
正造の姿勢には、彼が刑務所で読んだ西洋の政治学や経済学に見られるキリスト教的な人権尊重の精神が反映されていました。
明治27-28年頃、日清戦争中の日本では、国民は戦争への興奮に浸っていましたが、石井正造は足尾銅山からの鉱毒問題への取り組みを続けていました。しかし、農民たちは政府の提案する粉鉱採集器が鉱毒を除去する解決策と誤解し、その結果として鉱毒の害は存在しないと誤認していました。
明治29年9月、秋の大雨が農村地帯を襲い、堤防が決壊。洪水が村を飲み込み、足尾銅山から鉱毒を含んだ土砂が大量に流出しました。その結果、農地と家々は鉱毒を含んだ土砂で埋まり、多くの人々が病に倒れました。こうした被害を受け、農民たちは政府や銅山会社に対する怒りを募らせました。
同年10月、農民たちは正造に訴え、支援を求めました。これを受けて正造は彼らを励まし、足尾銅山鉱毒請願事務所を設立し、全員で鉱毒問題への運動を進めることを決定しました。
永島与八という青年は正造に手紙を送り、鉱毒問題解決のために一緒に働く意志を示し、この二人は一生を共に過ごすパートナーとなりました。永島は一度投獄されたが、その間にキリスト教に帰依し、後に牧師となって日本キリスト教団佐野教会を創設しました。
1897年、正造は再び国会で鉱毒問題を議題に上げ、被害の実態を示す物証を持ち込んで演説を行いました。その頃、足尾銅山の経営者は政府と県庁を動かし、被害を受けた農民に対しわずかな金と「鉱毒はこれから出ない」との契約書に署名させていました。その後、正造が警告していた被害が現れるという事態になりました。
農民たちはどのように運動を進めるべきか分からず、貧困のために運動費も出せずにいました。この問題は、現代における水俣病やイタイイタイ病などの公害問題と同じような背景を持っていました。正造は、人々の理解と協力が得られるか否かにかかわらず、自ら運動の核となって行動しました。
正造の活動に触発された青山学院の学生、栗原彦三郎は、彼に協力を申し出、YMCAを会場に演説会を開催しました。彦三郎を含む多くの活動家やキリスト教徒が話し手として立ち、被害地からの青年たちが被害の実態を記したチラシを配布しました。
古河市兵衛は鉱毒問題に対する議論を妨害するため、多数の鉱夫と自由党壮士を会場に送り込みました。青山学院の学生たちは彦三郎を支援し、一触即発の状況が生じたときには、協同親和会の一木斎太郎が門下生を率いて乗り込み、古河の支持者たちを取り囲んで事態を収拾しました。この会合は社会問題に対する初の講演会となりました。多くの国士や名士、キリスト教会の著名人たちが応援に立ち上がりました。
1897年2月14日と15日には、正造が再び国会で問題を提起しましたが、政府の対応は鉱業の発達と農業の衝突が起こり得るため、方針を調査するというものでした。これに正造は憤り、即時に救済が必要な農民に対して政府が時間稼ぎをしていると主張しました。
同月29日、津田仙は農商務大臣の榎本武揚を誘って足尾を視察しました。現地の農民は榎本に対策を求めたが、榎本は地方官吏も信用しなければならないと回答した。これに津田は激怒し、榎本に対し辞職を求めるほどで、周囲の人々がなだめる一幕もありました。
1897年3月24日、正造は国会で6度目の質問を行い、鉱毒により広範囲の土地が荒廃し、10万人以上の国民が毒にさらされていると主張しました。また、農商務大臣に対して鉱毒の水を飲むよう迫りました。
この時期、2000人以上の極貧の農民が上京して請願を行おうとしましたが、警官に阻止され、わずか100人以上が日比谷にたどり着きました。彼らは国会での請願を試みましたが阻止され、最終的には55名が農商務大臣の榎本武揚と面会できました。榎本は農民たちの訴えに涙し、「命をかけて期待に応える」と述べた後、28日に農商務大臣を辞任しました。その後、外相を務めていた大隈重信が農商務大臣を兼任することとなりました。
一方、大隈と親しかった正造は大隈の自宅を訪問し、「閣下、あなたが一番好きな鉢はどれですか」と尋ねました。大隈は盆栽が好きで、自慢の鉢を示すと、正造は渡良瀬川の水をその鉢に流し込みました。数日後、その鉢の松は枯れてしまい、大隈は激怒しました。しかし、その怒りは正造に対するものではなく、毒水を流し続ける企業家に対するものでした。
1897年5月23日、新農相大隈重信は、3県の新知事と次官とともに鉱毒対策を議論し、その結果、5月27日に37項目の「鉱毒予防命令」を古河市兵衛に渡しました。この命令は厳しく、7日以内に工事を始め、180日以内に完成させるよう指示し、違反すれば鉱業を停止させると脅しました。
この命令に対し、鉱山側は激怒しましたが、正造はまだ満足せず、根本的な対策は鉱業停止だと強く主張しましたが、大隈の信任を得られず、彼の邸宅から追い出されました。
古河市兵衛は大工事を始め、58万3千人を動員し、全工事期間180日のうち85日の晴天という厳しい条件のもとで、工事を昼夜兼行で完了しました。しかし、監督署長の南挺三はこの工事が完成したと同時に職を辞し、4倍の高給で足尾鉱山署長になりました。
12月、農民たちは完成した防御工事を見に行ったが、沈殿池やろ過池は凍結しており、毒水と廃石が流れていました。83の町村長が連名で被害民保護請願書を政府に提出しました。しかし、当時の法律では、免税となると公民権を失うという矛盾がありました。正造はこれを問題視し、法律が人権を奪うことに対して国会で怒りを露わにし、法律改正を求めました。
1898年3月の第5回総選挙では、正造は全投票数の約75%を獲得しました。しかし、その後、寒冷な季節に多忙な選挙活動を行い、さらに反対派の攻撃や官憲の妨害に立ち向かうために休む暇がなく、健康を害してしまいました。
渡良瀬沿岸の村々では、被害が大きい地域の地租が免除され、公民権、選挙権を失った住民が大勢いました。その結果、村の自治が崩壊し、行政権が全て郡役所に移されました。これらの状況を見て、正造は病床で苦しんでいました。
その年の9月6日、大洪水が襲い、渡良瀬の川底が足尾銅山の廃石で2メートルも埋まったため、堤防があふれてしまいました。山が裸になっていたために洪水は急速に押し寄せ、逃げ遅れた人々が犠牲になり、毒水が井戸に流れ込み、廃石が田畑を覆いました。
怒りに震える農民たちは、9月25日に請願上京を決定しました。「もう我慢できない」「どうせ死ぬなら、大臣たちの前で死ぬ」と、彼らは激しい感情を露わにしました。利根川の橋が撤去され、渡し船も隠されていたため、何度も川を往復して移動し、最終的に幸手に到着しました。
正造は、政府の問題について激しく追及し、特に自身の選挙区に関連する鉱毒問題について強く訴えました。彼の疑問は、政府が動かない構造と、自身の役職の限界についてのもので、それによって彼は大きな同情と感情を被害者に対して示しました。彼は「亡国質問書」を提出し、政府と企業が利益を追求し、国民の福祉を無視する現状を非難しました。その後、政府からの冷たい反応に失望し、彼は議員を辞職しました。これは、彼が日本の将来に対して深い憂慮を持ちつつ、国会議事堂を去った瞬間でした。
「田中正造のアクビ事件」により、正造は公判中に大アクビをしたことで「官吏侮辱罪」で告訴され、再び獄中生活を送ります。その時、彼に差し入れられた聖書を通じてキリスト教に触れ、その教えに深く感銘を受けます。自身の20年間の政治運動について反省し、キリスト教の救いと改造の力に気づくことで、過去の敵意と闘争から和解への道を見つけます。
出獄後、彼は非戦論と軍備全廃論を説くようになります。日露戦争開戦前夜のこの時期に、彼は日本の「富国強兵」政策と「大陸進行政策」を企業家の利益追求の陰謀と見抜きます。キリスト教の教義に触れ、「すべて剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26・52)というイエスの教えを通じて、武力による富国強兵策は亡国への道であると認識します。
正造はキリスト教の教えを深く学び、その教えを自身の人生観に取り入れました。さらに、彼の教えを受けた黒沢酉蔵は、正造の「自然を愛せよ」という教えに触れ、北海道で酪農の開拓者となり、「北海タイムス」を発刊し、さらに「酪農大学」を設立しました。また、正造は救世軍の創立者ウィリアム・ブース大将の来日に感動し、日本の救世軍司令官山室軍平中将と深い交わりを持ちました。
明治34年6月、元議員の田中正造の辞職後、「万朝報」の内村鑑三と「毎日新聞」の木下尚江が、惨状の地方を調査。その結果、彼らは国民を警醒させるような報道を始めました。木下はYMCAで「鉱毒糾弾」の演説会を開き、その様子をメモしていた少女は、古河市兵衛の女中で、真実を知った彼女の報告に触れた市兵衛の妻タメ子は自ら命を絶ちました。
同年12月、田中正造は幸徳秋水に天皇に直訴したいと願い出、その願いを叶えるべく秋水は直訴文を書き上げました。これは、田中が天皇に近づくことの危険性を自覚し、家族を守るために戸籍を除いたり、妻カッ子に離縁状を渡すという事態まで引き起こしたのです。
そして、第16国会の開院式の日、田中は秋水の書いた直訴文を携えて天皇の元へ近づこうとしましたが、憲兵に阻まれ、逮捕されてしまいます。これにより政府はパニックに陥り、「田中正造、発狂す」と発表。直訴に失敗した田中は失望しました。
しかし、そのニュースが伝わると、全国の新聞は田中に同情する記事を書き、全国的な関心が集まりました。さらに、1000人の学生たちが現地視察に訪れ、その中には再び内村鑑三や安部磯雄もいて、彼らは学生たちに対し、「学生諸君、この日本を亡国から救うために、諸君は決起せよ」と訴えました。
明治時代の足尾銅山の主であった古河市兵衛死後、副社長の原敬が企業と政界を支配し、大量の山林を安価に取得しました。この結果、洪水が頻発し、毒水が足尾から江戸川に流れ、政府は対応に苦慮しました。政府は、洪水時に水を貯めるため、栃木県の谷中村を廃村にすることを決定しました。
谷中村は400年の歴史を持つ村で、当時は450戸、2700人が住み、その農地は豊かでした。しかし、政府は彼らを不毛な土地に追いやり、村を洪水のための貯水地に変えました。
これに対し、正造は強く反発し、自分の居住地を谷中村に移し、村民とともに抵抗の意志を示しました。正造はこの事件を通じて、自然と人間の関係の重要性を説き、国土保護と軍縮の重要性を主張しました。
しかし、多くの村民は政府によって追い出され、正造の仲間も彼を見捨てました。それでも正造は最後まで抵抗を続け、世論啓蒙に努め、国会に請願し、裁判所に訴訟を起こし続けました。彼の抵抗は絶えず、その姿勢は人々に深い影響を与えました。
田中正造の最終的な闘いは、人間の内面に存在する「原罪」に対するものでした。彼は自身も悪の一部であると認識し、改革を求めました。一方、彼の同志であった幸徳秋水は、議会主義の無力さを指摘し、暴力革命を主張し、大逆事件の首謀者として逮捕され、死刑にされました。それにもかかわらず、正造は法律を遵守し、持続的に闘い続けました。彼の訴訟は死後に勝利し、補償が認められました。
正造は病に倒れ、幽門狭窄症と診断されました。彼は自身の病気よりも、環境問題による自然の破壊が重要であると述べ、その回復を要求しました。絶句するまでに、「日本の乱れ」について語りました。その後、静かに息を引き取りました。彼が遺したものは新約聖書、日記、チリ紙だけでしたが、彼の精神的遺産は公害と戦う国民の中で、今日まで続いています。