はじめに

キリスト教はいうまでもなく世界で最も多くの人々がこれを信仰しています。そして人々の生き方、考え方、人生そのものにおいても大きな影響を与えてきました。私は社会福祉を学んだとき、それがキリスト教の聖書からうまれてきていることを教えられました。

今日でも、社会福祉の発達している国は、キリスト教が普及している国であることからもそれがよく分かります。日本でも人権尊重、差別をなくそうということを叫びながら、外見的なところは福祉の設備を取り入れるようなことをしていますが、実は大切なことは外見ではなく精神です。

人間を超えたまことの神がどのようなお方であるかを知り、この方の前に正直に自分自身を見つめつつ、ひれ伏し、神の愛に触れるところで、私たちは真実の人間性を取り戻していくのではないでしょうか。

静岡教会牧師 遠山信和

キリスト教QandA 目 次

Q1  キリスト教を知るためには、どうしたらよいのでしょうか・・・・・・

Q2  信者になるためには、どのようなことが必要ですか。・・・・・・・・・

Q3  私は過去に人には言えないようなたくさんの罪を犯しました。

私のようなものが教会に行ってもよいのでしょうか。・・・・・・・・・

Q4  神を信じなくても、支障なく生きていけると思うのですが・・・・・・・

Q5  聖書とは何ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q6  聖書にいわれる天地創造は、進化論と矛盾しませんか・・・・・・・・・

Q7  ある人がゆるせません。私のような者には救いはないのでしょうか・・

Q8  過去の罪を思い自己嫌悪に陥ります。私もゆるされるのでしょうか・・

Q9  日本キリスト改革派教会とはどのような教会ですか・・・・・・・・・

 

キリストの十字架と復活について

 

Q10 イエスが神の子ならなぜ十字架にかかるようなことになったのですか

Q11 キリストの死はどうして人間の罪のゆるしとなるのですか・・・・・・

Q12 キリストが復活したという聖書の教えはどうも信じがたいのですが・・

Q13 キリストの復活は何を意味しているのですか・・・・・・・・・・・・

Q14 キリストの十字架と復活は私たちとどんな関わりがあるのですか・・・

 

三位一体について

 

Q15 聖書が教えている神はどのような神なのですか。・・・・・・・・・・

Q16  「三位一体」ということがわかりません。説明してください・・・・

Q17 イエス・キリストは、どのようなお方なのでしょう・・・・・・・・・

Q18 聖霊とはどのようなお方なのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・

Q19 天皇制はキリスト教の信仰と相いれないものなのですか・・・・・・・

Q20 何を信じて生きるのか、信仰の対象と信心について教えてください・・

 

キリスト教会・新興宗教について

 

Q21 カトリックとプロテスタントの違いについて教えてください・・・・・

Q22 歴史を学ぶと、キリスト教が争いの種になっているようなこともあります。どうなのでしょう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q23 家庭訪問をしてパンフレットなどを販売している「エホバの証人」はキリスト教なのですか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q24 文鮮明を教祖とし、集団結婚などをしている「統一協会」はキリスト教なのですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q25 モルモン経典を信じている「モルモン教会」はキリスト教なのですか

Q26 正統的なキリスト教会と異端とではどのような違いがあるのですか・・

 

信仰生活について

 

Q27 祈りとはどういうことですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q28 毎日の生活の中でどう祈ったらよいのでしょうか・・・・・・・・・・

Q29 キリスト教では先祖を大切にするということをどのように教えていますか

Q30 どうすれば「神の呼びかけ」とか「みむね」がわかりますか・・・・・

Q31 神様の愛を知っているはずの信者がなぜかげ口を言うのでしょう・・・

Q32神が愛の神であるならなぜこの世の中には苦しみがあるのですか・・・

Q33 外国ではクリスチャンが大勢いるのに、どうして日本ではクリスチャンは少ないのでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q34. 日本に於いて「個の確立」が未だにできていないこと、自由を獲得する戦いや人権の思想、福祉の思想などが遅れていることは、キリスト教が根付いていないことと関係があるのでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・

Q35 信仰と生活はどのようにかかわっているのですか・・・・・・・・・

 

いのちと希望に向かって

 

Q36 21世紀を迎えるといっても、暗い時代であるように思います。自殺率の増加、自然破壊、青少年の凶悪な犯罪、虐待、大企業の倒産など、将来に希望が持てません・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

37 どうしても嫌いで愛せない人がいます。クリスチャンとしてどうしたらいいでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q38 洗礼は、どうして受けるのですか。・・・・・・・・・・・・・

39 神様と距離を感じるとき、祈る気さえおこらないのです・・・・・

40 どうして神様は試練を与えるのですか?・・・・・・・・・・・・・

41 祈っているのに、なかなか祈りが聞かれないのですが?・・・・・

42 神様の愛はわかるんだけど、自分のことをどうしても好きになれません

Q43 人間は死んだらどうなるのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・

Q44 神に従おうと思ってもなかなかできない私です。つくづく自分の至らなさ、未熟さを感じます。こんなものにも希望があるのでしょうか。・・・・

Q45 どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか・・・・・・

Q46 「永遠のいのち」を信じないでも精一杯に生きればよいのではないでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q47 今の時代、私たちが抱えているもっとも深い根本的な問題は何でしょうか。

Q48 聖書には、「信仰と希望と愛」はいつまでも続くといわれていますが、このときの、信仰、希望、愛とはどのようなものなのですか。・・・・・・・

Q49 クリスチャンにとって死とは何ですか・・・・・・・・・・・・・・

Q50 人生にとって最も大切なこと、なくてはならないこととはなんでしょうか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

あなたも招かれています

 

Q1キリスト教を知るためには、どうしたらよいのでしょうか

 

キリスト教はいうまでもなく、世界最大の宗教であり、現在は特にアジア、アフリカなどで急速に広がってきています。

民主主義の思想、人権の思想、自由、愛、教育などさまざまな事柄を理解していく上でも、私たちの人生のあり方を考えていく上でもキリスト教は欠かすことができません。

これをご覧の皆さんは、これまで何かをマスターする場合には、それぞれのやり方があることをご存知でしょう。例えば数学を学ぶときには、数学の本や手引書などによって幾度も練習をします。水泳をマスターしようと思えば、水泳の達人に習って実際に自分もやりながら習得していきます。

キリスト教の中心はイエス・キリストですから、聖書が教えているイエス・キリストに注目して、あなた自身が、何よりもまず聖書を読むことが大切です。聖書の中でも、イエスの言葉と行いを伝えている「福音書」から始めるのがよいでしょう。

しかし、聖書は独学で理解しようとすると、それを読むだけでは意味がよく分からないことや誤解してしまうこともあるかもしれません。

やはり、伝統のあるキリスト教の教会で、きちんとした指導を受けたほうがよいでしょう。また、キリスト教の真髄はなんといっても礼拝にありますから、是非、お近くのキリスト教会の礼拝に出席されることをお勧めします。近くの教会を訪ねて、そこでキリスト教入門の講座とか勉強会などがあったら、それに参加するのがよいと思います。

聖書を学んでいくと、聖書は神様ご自身の自己紹介であり、救いと希望への招待の書でありますから、聖書によって、あなたはあなたを創造し、あなたを生かし、救いへと招いておられる神に出会うようになります。

 

Q2信者になるためには、どのようなことが必要ですか。

 

日本は実にたくさんの資格があり、学歴社会でもありますから、聖書やキリスト教がわかるのは、高学歴で思考力のある人だろうと思われる方もあるかもしれません。もちろん基本的な知識を持つことは必要ですが、字が読めない人や学校に行ったことのない人でも立派な信仰を持っている人はたくさんあります。ですから、私は学歴がないから、などという人も心配しないで教会の門をたたいてください。神様はあなたをも招いておられます。

むしろ大切なことは、真理を求めようとする心、イエス・キリストに聞く心なのだと思います。このようにして聖書に聞いていくと、聖書を学ぶ場は、机の上だけではない、日常生活のあらゆるところで、私たちの生活において学ぶことができるようになってくるでしょう。

成長する人は学ぶ人です。そして学ぶとは変わることです。信仰の上で成長しようと思ったら、やはりそれぞれが自分の事情のゆるすかぎり、きちんと学ぶことをお勧めします。人間というものは、頭だけでもなければ、心だけでもありません。頭で理解すること、心で受けとめること、感じること、いずれも大切なことです。

私は、礼拝に出席することと、牧師に願い出て、キリスト教入門講座などできちんと聖書の基礎を理解していただくことをお勧めいたします。

 

Q3私は過去に人には言えないようなたくさんの罪を犯しました。私のようなものが教会に行ってもよいのでしょうか。

 

私たち人間の社会は、例えば前科のある人や部落民、障害者などさまざまな人を分け隔てしたり、見下したり、「あの人と付き合っちゃダメよ」などと言ったりすることがあります。しかし、イエス・キリストは、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。

聖書には、しばしばイエス様が罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と批判しました。一緒に食事をするということは、親しいお付き合いをするということで、その人の友になるということです。イエス様はこのように、弱い人々の友となることをとおして、父なる神の心を代弁したわけです。

ルカによる福音書15章の、いなくなった羊、なくなった銀貨、放蕩息子のたとえはいずれも神のもとを離れた人が、神のもとに返ってくることを神は心から喜んでくださることを表しています。

また、イエス様は次のように言われました。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)

 

Q4神を信じなくても、何の支障もなく生きていけると思うのですが

 

「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17:25)

 

私たちは、その人が神を信じているいないとに関わらず、自分の力で生きているのではなく、この神によって生かされているのです。

聖書には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)というみ言葉があります。私たちは気づいていなくても、父なる神は太陽を昇らせ、雨を降らせて私たちのいのちを養ってくださっているではないかというのです。

この世界も神によって創造され、この中にいるあらゆる植物も動物も、私たち人間も神によって創造されたのだと言われています。そして神は私たちの生と死を支配しておられるというのです。しかも神は私たちを、神とともに生きるべく造られましたから、神に立ち返るまでは、真の平安を持つことができないのです。

神は一人ひとりの人間をお造りになって、しかもご自分のいのちにあずからせようとして招いておられますから、一人ひとりの人間の心に、ご自分への憧れを植え付けられました。だから人間は、本当に人間らしく成長するためには、神のことを知らなければならないし、神に向かって成長するときに初めてしあわせを見いだすことができるのです。

私は、聖書の神様を知るようになって、「これで私も本当のふるさとに帰ることができた」という実感をもつことができるようになりました。以前はあまり気づかなかったさまざまなことを、感謝を持って受けとめることができるようになりました。

 

Q5聖書とは何ですか

 

聖書は「旧約聖書」(39巻)と「新約聖書」

(27巻)から成り立っています。聖書は神の言葉といわれます。実際にこれを書いたのは、マタイとかマルコとかパウロといった人間なのですが、

これがどうして神の言葉と言われるのでしょうか。

聖書は1冊の書物と言うよりは、幾人もの人の手によってかかれた全集のようですね。これが最初に書かれたのは、紀元前1400年ごろ、モーセによって聖書の最初の部分がかかれ、紀元後96年ごろ、ヨハネにより新約の最後の部分、ヨハネの黙示録が記されるまで、およそ1500年にもわたって、約40人の人の手によって書かれてきたのです。

しかし、この66巻を読むと分かるように、聖書の中には不思議な統一と内容の一貫性があります。1500年にわたって、40人もの人が書いたとはとても思えません。40人の著者たちが一堂に集まり編集会議を開いて、一定の方針を決めて書き始めたかのようです。

このことについて、聖書自身が、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(2テモテ3:16)と説明しています。「神の霊の導きの下に書かれ」と言うのは、神がそれぞれの時代に、いろいろな境遇の人に働きかけて、その人格、才能、性質などを十分に用いて、神がそれぞれの時代に働き、さらに私たちすべての人類の救いのために書かせたということです。

聖書の書かれた目的は、ヨハネによる福音書20章31節に次のようにかかれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

聖書が、他の書物とは比べ物にならないものであることは、その内容からも分かりますが、聖書ほどこれまでに多くの人々に影響を与えてきたものは他にありません。現在では聖書は、世界で約2200の言語に翻訳され、年に5億6000万部も発行されています。また時代を超えて多くの人々に、生きる力を与えてきたロングセラーでもあります。

 

聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありませ ん。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。

しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。繰り返しになりますが、聖書を読まれるなら、最初に新約聖書を読んでみてください。最初の4つはイエスキリストの生涯について書いてありますので読みやすいと思います。クリスチャンはいつ死んでも天国へ行けるという希望を持っていますが聖書の中にその答えがあるのです。

 

Q6  聖書にいわれる天地創造は、進化論と矛盾しませんか

 

「進化論」は、チャールズ・ダーウィンが提唱して以来、たくさんの仮説が生み出されてきました。

「進化論」は、学校の教科書にも出ていて、これは科学的に立証されているかのような印象を与えますが、考古学や地質学、生物学などの研究によって現在明らかになってきたことは、進化論という仮説に関しての科学的な根拠はほとんど見出されていないということです。むしろ、科学的に言えば、神が天地を創造されたという創造論の方が理にかなっているという証拠が多数現れてきているのです。

最近では、米ニューヨーク・ロックフェラー大学のマーク・ストークル氏(Mark Stoeckle)と、スイス・バーゼル大学のデビッド・タラー(David Thaler)氏は共同で、アメリカの遺伝子データバンク(GenBank)にある10万種の生物種の DNA から抽出された、500万の遺伝子断片である「DNA バーコード」を徹底的に調査しました。その結果、ほとんどの動物がヒトとほぼ同時期に出現したことを示す証拠を発見。人間を含む現在地球上に存在する生命種のうちの 90%が10万~20万年前に出現したことが明らかになったということです。

さらに、「生物種には非常に明確な遺伝的境界があり、2つの間に位置する中間種は何もなかった」ということが分かりました。ダーウィンが主張した「間にある生物種」が存在しないということは、つまり猿が人間に進化する過程の、いわゆる「猿人」も存在しないということになります。

また、聖書は自然科学の教科書として書かれたものではありません。聖書はその目的と意図にてらして読むことが必要です。聖書学の発達していなかった時代には、ガリレオの地動説さえ聖書の真理を否定するかのように考えられたことがありました。しかし、科学者の中で聖書の神を信じる方々が多数いることも理解できることです。この世界は神が創造された世界ですから、自然科学を真摯に追及していくとき、科学者たちはそこに神の御手を見出すことが出来るのです。

自然科学は、立証されたものを事実として語るものですが、進化論の場合は、まだ科学者の仮説に過ぎないものが教えられているという面があります。進化論はあくまでも仮説に過ぎません。そして進化論には証拠がありません。類人猿の骨も見つかってはいないのです。そういうものを見た人もどこにもいないのです。

私たちが掘っても掘っても発見するのははじめから直立した人間しか見つからないのです。これは科学者が想像して、こうなったであろうということなのですが、もしも猿から人間へと進化したのであれば、あちらこちらに猿と人間の進化の過程にあるような動物がいてもよさそうですが、そういうものはどこにもいません。

長い間にわたる進化によって人間が去るから人間になったというのであれば、例えば20%は人間で80%は猿のようなものがあちこちにいてもおかしくないはずですがそういうものは存在しないのです。はじめから猿は猿であり人間は人間であったと考えるほうが自然なのです。

進化論を唱える学者たちがどうしても説明できないことは、リプロダクトシステムです。はじめから完全でなければ、完全なものは生まれません。リプロダクトシステムがだんだんと進化したということは考えられないのです。もしそれが不完全であったら、子供は決して生まれません。ですから、進化したのではなくはじめから完全な人間であったはずです。進化論はこの理由を説明することができません。

ガリレオは、自分の研究室に人々を連れて行ってこう言ったそうです。そこには、太陽や水星、金星、地球、火星、木製、土星などの見事な模型がありました。「これを見て御覧なさい。私はこの宇宙を見るとき、神の存在を疑うことはできない。」

すばらしい調和の中でこの天体が動いていること、季節の移り変わり、食物連鎖、さまざまな自然の営みの中に、私は神の存在を感じざるをえないというのです。

先日、ハーバード大学、マサチュウセッツ工科大学などの教授が集まって討論をした模様がテレビで放送されていましたが、その中である教授は、「われわれ人類の科学がしてきたことは、人類がいかに知らないかを明らかにしたことだ。」と言っておりました。

もう何年か前のことになりますが、NHKテレビで、驚異の小宇宙人体、という放送がありました。人間の脳についての放送もありました。この人間の体は、すばらしい秩序があって、どの器官も不必要なものはなくて、完全なものです。電子顕微鏡を使ってからだの内部の隅々まで見ることが出来るようになりましたが、こうして、私たちはまさに驚異としかいいようのない、すばらしい体、そしていのちを神様によって与えられているのです。

これをデザインしたのは、愛の神なのだと聖書は語ります。神以外の誰がこのようなことをなしうるのでしょうか。私はガリレオの意見に同感です。偶然が重なってこのような秩序が生み出されることは科学的にいえば不可能なことです。

人類は、どんなに立派なビルディングを作っても、一本の草花を作り出すことはできません。「いのち」の領域は神様の領域です。

今日も私たちのいのちをはぐくんでくださる神によって教えられ、導かれて、初めて私たちは、私たちのいのちがどこから来てどこに行くのか、自分が生きる意味を教えられるのです。

 

Q7  ある人をどうしてもゆるすことができません。私のような者に救いはないのでしょうか

 

人をゆるすということはなかなか難しいことですね。言葉で「ゆるす」と言っても自分の感情がゆるさないということもあります。

人の心をよく考えていくと、人をゆるすことができない人は、自分をゆるす事ができないでいる事が多いものです。自分の中に奴隷使いがいて、「おまえはそんなことではダメだ」「そんなことでは将来が思いやられるぞ」というように、自分で自分を責め、人との比較をしながら、あるときは優越感にひたり、あるときは劣等感に、あるときは自己嫌悪に陥っているということがあります。特に日本人は自分を責める傾向が強いように思われます。

もちろん自分の過失や失敗もあったのですが、自分を責め、不安と恐れのうちにいる人がたくさんあるのです。このような私たちにとって先ず必要なことは、自分がゆるされること、自分が神によってゆるされていることを知ることです。

イエス様はあるとき次のような現場に出会わせました。

「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8:3~11)

聖書の中には、「あなたの罪は赦された」という言葉がよく出てまいります。実はこのことが人間にとってもっとも必要なことだからです。「罪のないものがまず石を投げなさい。」といわれて、誰も石を投げることはできませんでした。自分には罪がある、そして誰もが心の中で意識していなくても恐れや不安をもっているのです。そしてそれを打ち消すためにも、自分よりできの悪いものを見つけては引き下げて安心しようとするのです。

しかし、人間の努力によって、人を罪に定めたり赦したりすることはできません。それは神様だけがなさることです。

イエス・キリストの十字架の血潮によって、それを受け入れる信仰によって、あなたの罪が赦されたことを先ず覚えてください。多く赦されたものは多く愛するのです(ルカ7:47参照)。

 

Q8  過去の罪を思い自己嫌悪に陥ります。私もゆるされるのでしょうか

 

ご安心ください。キリストの十字架によって赦されない罪は一つもありません。イエス様は、私たちの過去、現在、未来のあらゆる罪の咎を引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださったのです。

イエス・キリストの生涯は、馬小屋から十字架にいたるまで、すべて人に仕えるものとして、十字架にむけて歩まれた生涯でした。旧約聖書のイザヤ書53章には、私たちの救い主がどのようなお方であるか、どのようにして救いを成し遂げてくださるのかを預言して、次のように言われています。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」(イザヤ書53:1~6)

ここでいわれている「彼」とはイエス・キリストであります。

イエス・キリストは、神のみ子でありながら、例えば、道を誤り、神を神とも思わないで自分勝手に生きてきたもの、思いや行いによって神や人を傷つけてきたもの、そのような私たちを神のもとに招くために、人の姿をとってこの世に来てくださり、罪を赦し、いのち(神との交わり)に招くために、十字架についてくださったのです。

聖書が指し示している神は、決して天の高みに座って、「がんばってここまで上がってきなさい。というできない要求を突きつけて、できなければ切り捨てていくというような神ではありません。そうではなくて、神の方から私たちのもとに下ってきてくださるのです。

弱さや痛みを持ってうめいている私たちのところに来て寄り添い、私たちを愛を持って引き上げてくださるお方です。そのためにはどんな苦しみも犠牲もいとわないのです。

ルカによる福音書15章の後半には放蕩息子のたとえが記されていますが、父の下を離れてすき放題の事をしている放蕩息子をいつも待ち続けている。そして帰ってきたときには喜んで迎えてくださるお方なのです。

罪は、神のいのちにあずかるために造られた人問の本来の姿を破壊するものです。人間はその結果、不幸になってしまいます。わずかな毒が全身を麻疹させてしまうように、罪は神の子らの生命を窒息させ、人を闇に閉じ込め、喜びを奪います。

しかし、父なる神は、そのようにご自分から離反して、不幸になった人間のことを傍観しておられるのではありません。神は人問の不幸をともに悲しみ、人問が立ち戻ってくることをだれよりも望んでおられる方です。そしてキリスト教の信仰は、神が私たちを救うために、ご自分の愛する子さえ惜しまずに死に渡された、と信じています(ローマ8:31~39参照)。

 

Q9 日本キリスト改革派教会とはどのような教会なのでしょうか。

 

静岡教会は日本キリスト改革派教会に属しています。

キリスト教会は大きく分けてカトリック教会とプロテスタント教会に分けることができますが、この枠組みで言えばプロテスタントの教会になります。

仏教の場合は、宗派が違えば経典も違い、教えもずいぶん違ったものになりますが、キリスト教の場合は、聖書のみを自分たちの正典としています。また聖書の解釈も古代信条(使徒信条、ニケヤ信条、カルケドン信条、アタナシウス信条)を採用していますので、基本的なところは共通しています。

使徒信条では「聖徒の交わりを信ず」と告白しているように、国籍や民族や、境遇、性の違い、人種の違い、世代間の違い、時代の違い、教派の違いなどを超えて、イエス・キリストを信じるものは、神による兄弟姉妹であると信じています。

キリスト教会は、教派が違ってもそのような一致している部分は大きいのですが、時代の流れの中でそれぞれに特長をもち、強調点を持ちつつ、教派に別れて今日にいたっています。しかし私たちイエス・キリストを信じるものどうしは、同じ神によって導かれた者として、例えばアフリカに行っても、韓国に行っても、中国に行っても、主にある兄弟姉妹として共通の理解を持って話し合うことができるのです。

改革派の改革は、宗教改革からとられたもので、常に聖書に立ち返ろうという宗教改革の精神を受け継いで、聖書によって自らを改革し続ける教会を目指しています。

第2次世界大戦中、日本基督教団に属していた10数名の教職たちが、やがて敗戦とともに信仰の自由を与えられると、1946年4月28日、東京に集まり、日本基督改革派教会を創立しました。

ウエストミンスター信仰告白、大小教理問答書を信仰基準とし、教会組織は長老政治を採用しています。(詳しくは「日本基督改革派教会史」(聖恵授産所出版部)をご覧ください。)

 

キリストの十字架と復活について

 

Q10 イエスが神の子ならなぜ十字架にかかるようなことになったのですか

 

聖書を読むと、イエス様が十字架にかけられたとき、それを見ていた人々はあざけって言いました。「おまえが神の子なら十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう。」

十字架は、当時のローマ帝国におけるもっとも残酷な処刑の仕方であり、これはよほどの極悪人がかけられるものでした。神のみ子が十字架にかかるなんておかしいじゃないか。十字架の様子をみていた人たちの中にもそのように考えている人が少なからずいたようです。

新約聖書の福音書にあるイエス様のご生涯を注意深く読んでいくと、イエス様はご自分から十字架への道を進んでいかれたことが分かります。しかも自分は何の罪も犯していないのに十字架という極刑に処せられるのです。実はここには、神様の私たちへの大きな愛が表されているのです。

実はイエス様は、以前から、十字架と復活のことを少なくとも3度、予告しておられました。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ8:31、9:31、10:33)

ここに言われている、苦しみを受け、殺され、復活するという語は、原文では、苦しみを受けなければならない。殺されなければならない。復活しなければならないという強い調子の言葉が使われています。私たちの救い主は、どうしても苦しみを受け、(十字架において)殺され、よみがえらなければならないのです。

私たちを永遠の滅びに陥れようとする罪と死から救われる道は、これ以外にはないのです。人にはできないからこそ、神のほうから救いの道を、このようにして開いてくださいました。

聖書には、「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められている」(ヘブル9:27)と言われています。私たちにとって恐ろしいことは、この肉体が死んだ後、神の前に出てさばきを受ける時がやってくるということです。これには例外はありません。そして神の前に罪のないものはひとりもいないのです。

罪の支払う報酬は死である(ローマ6:23)とあるように、罪は死をもって償う以外にはありません。罪人に対するさばきの求刑は永遠の死であります。

このように死に定められた私たちの状態をいのちへと回復し、罪の奴隷の状態から解放し、人間本来の神とともに生きる永遠のいのちへの道を私たちに与えてくださるために、イエス・キリストはどうしてもこのような苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださる必要があったのです。

イエス・キリストは、私たちが受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けて死んでくださったのです。

 

Q11 キリストの死はどうして人間の罪のゆるしとなるのですか

 

救い主の条件を考えるとこういうことになります。

 

  • 罪のない者(神以外に罪のないお方はありません)
  • まことの人間(罪を犯したのは人間ですから人間が償う必要)
  • 私に代わって罪の刑罰を受ける

 

私たちを罪から救ってくれる救い主は、これらのすべての条件を満たすものでなくてはなりません。私たちは、自分の力では罪と死から逃れることができませんから、神様による救いをいただく以外には、救われるすべを持たないのです。

 

「罪のないもの」とは、人間の中には見当たりません。罪のないものは、神様以外にはおられません。その神のみ子が私たちの下にきてくださったのがクリスマスです。それは今から約2000年前のことでした。西暦はイエス・キリストの誕生を基準としています。

イエス様は、神のみ子でありながら、おとめマリヤから、まことの人としてお生まれになり、旧約聖書の約束の言葉をことごとく成就(実現)して、救い主としての生涯を過ごされたのです。

イエス・キリストの生涯は、ベツレヘムの馬小屋での出生からゴルゴダの十字架にいたるまで、父なる神に従い、神と人とに仕える者としての生涯でした。そしてイエス様は特に30歳前後の公生涯といわれる晩年の生活の中で、救い主としてのお働きをなさるのですが、それは人々を愛し、神の救いの福音を語りながら、十字架に向けての歩みに他なりませんでした。

聖書の中でイエス様はよく、「あなたの罪は赦された」という言葉を述べておられますが、これはご自分の十字架の死を根拠として言われている言葉です。

神のさばきの座の前に出るときにも、イエス・キリストを信じる者にとっては、この方が私の弁護士となって傍らにいてくださいます。そしてこのように言われるのです。「大丈夫だよ、あなたが受けるべき罪の代価は全部私が引き受けた。あなたが受けるべき刑罰ものろいもすべて私が十字架において受けたから。もうあなたは裁かれない。あなたを罪に定めるものはいない。安心していきなさい。」

聖書全体が神による救いを述べていますが、関連個所を一部だけ引用してみます。

 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)

 

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

 

Q12 キリストが復活したという聖書の教えはどうも信じがたいのですが

 

信じがたいのも当然です。死はそれほど私たちにとってどうすることもできない現実になっているのですから。人間は決して罪を克服するとか、死に勝利するというようなことはできません。しかし聖書が教えていることは、「人にはできないが神にはできる」(マルコ10:27、ルカ18:27)という世界なのです。

日本のような汎神論の思想が渦巻いている社会では、神は相対的なもので、人間に近い、あるいは人間と同じようなちっぽけな神であることが多いようです。確かに人間が作り出した偶像の神々は、もともとが死んでいる神なのですから私たちを生かしたり、救い出したりすることはできないでしょう。しかし、私たちをお造りになった神はいのちを与え、いのちを育み、さらに私たちが救われることを願っておられて、イエス・キリストをも与えてくださる愛の神なのです。

 

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17:14~15)

 

あなたの神はどのような神でしょうか。大きな器と小さな器があるとします。神様は当然私たちよりも大きな器です。小さな器に大きな器を入れようとしてもこれは無理なことです。私たちの神様は、私たち人間の知恵や人間の力を超えたお方であることを覚えてください。ここでは、神を神として受け入れる信仰が求められているのです。

神様の大きさを知ることは私たちにとって大きな慰めであり希望なのです。

「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:20~22)

 

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)

 

Q13 キリストの復活は何を意味しているのですか

 

私たちのために十字架にかかってくださったイエス・キリストがよみがえられたということは次のことを意味しています。

 

  • 神は約束の言葉を実行(実現)してくださること
  • 死に対する勝利
  • イエス・キリストは今も生きて私たちのうちに働いておられる
  • 初穂に続いて信仰者も復活し、永遠の命に生きる
  • 終末を待ち望んで生きる希望が与えられている

 

神は、何の業もしないで、言葉だけです私たちの救いをかたっておられるのではありません。旧約聖書は、罪と死のうちにある人間に対する神からの救いを語り、メシア(救い主・キリスト)を私たちのために与えてくださることが約束されていました。

この救い主は、死に飲み込まれてしまうようなことであれば、死に打ち勝ったということはできません。十字架と復活の両方が実現されてはじめて私たちは、この救いが現実的であり、確かな救いであることを知らされるのです。

 

Q14 キリストの十字架と復活は私たちとどんな関わりがあるのですか

 

イエス・キリストは今から2000年前に、イスラエルのベツレヘムというところに生まれ、33歳ごろエルサレム郊外のゴルゴダという処刑場で十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえって約40日の間弟子たちなどとともにお過ごしになり、多くの人々が見ている前で天に上っていかれたといわれています。

旧約聖書の最初の部分は、紀元前1400年ごろモーセによって書かれましたが、実は聖書を書いた究極の著者は神であると聖書は教えています。

この聖書全体は、イエス・キリストを指し示しているのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)

またヨハネによる福音書の最初のところにはイエス・キリストについてこのように言われています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:1~4)

ここで言われている、「言」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストははじめからおられた方であり、神そのものであり、イエス・キリストによって万物は造られたということです。

そして同じく1章14節には、このような神のみ子が、人として私たちのうちにきてくださったことがかかれています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

私たちは、栄光ある神様のところに自分たちの力で上っていくことができません。どんなに努力して修行を積んでもできないのです。

そこで、神様のほうから私たちのもとに下ってきてくださったのです。

私たちの神は、高いところにいて、傍観者のように「もっとがんばれよ」などといって眺めている神ではありません。この世界のあらゆる命の営みは、神によって支えられ、守られ、生かされているのです。

 

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6:28~30)

 

それだけではなく、神は私たちをイエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦され、いのちに向かって生きるものへと導いてくださいます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:9~11)

 

三位一体について

 

Q15 聖書が教えている神はどのような神なのですか

 

ウエストミンスター小教理問答書問4の答えとして「神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」といわれています。

一言でいえば以上のように答えることもできますが、これだけでは不十分でしょう。聖書全体が神はどのようなお方であるかを教えています。あなたがご自分で聖書を開き、(私の)神はどのようなお方であるのかを是非探求してください。

先ず覚えていただきたいことは、神はただひとりの神であるということです。

「わたしは初めであり、終わりである。 わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6、7)

聖書においてご自身をあらわしておられる神は、「私のほかに神はない」といわれました。申命記6章4節には、「我らの神、主は唯一の主である。」といわれています。この「唯一」という言葉には、数の上からただひとりの神という意味がありますが、さらには、絶対の、比べることもできないという意味があります。

聖書の神は、他の偶像の神々とは比べることができない、生ける唯一の神です(申命記32:39、イザヤ45:5、6、18、46:9)。

また、神は、「アルファでありオメガである方」(ヨハネの黙示録1:8、21:6、22:13)です。すなわち、最初であり最後である方、はじめから存在し、終わりにも存在しておられる方です。

そして神は、天地の造り主です。いのちを生み出し、いのちを育んでおられる方です。使徒の働き17章24節でパウロはこのように神様のことを証言しています。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17:24、25)

神様のご性質について、どうしてもふれておきたいことは、神は愛のお方であるということです。イエス様は、私たちへの新しい戒めとして愛することをお命じになりました。そして愛するとはどういうことなのかを身をもって示してくださいました。

さらに神様がどのようなお方であるか、詳しく書くことはできませんが、いくつかのことを箇条書きにして紹介します。

 

神はすべてを知っておられる(歴代志28:9、ヨハネ21:17、ヘブル4:13)

神は聖なる方です(出エジプト15:11、イザヤ6:3、1ペテロ1:15、16)

神は変わる事がありません(民数記3:19、詩篇33:11、マラキ3:6、ヤコブ1:17)

神は自ら満ち足りて、自ら存在される方です(出エジプト3:14、エレミヤ16:20)

神はどこにでもおられる方です(詩篇139:7~10、エレミヤ23:23、24)

神は義なる方です(詩篇97:2、ローマ10:3、2テモテ4:8)

神は知恵に満ちておられます(詩篇104:24、ローマ11:33)

神は恵みと憐れみに満ちておられる(申命記4:31、エフェソ1:6、2:4、5、ヘブル4:16)

神は全能のお方です(創世記17:1、マタイ19:26、ヨハネの黙示録4:11)

神は主権的な意思を持っておられます(申命記32:39、エフェソ1:11、ヨハネの黙示録4:11)

神を知る道は、聖書に聞くことですが、聖書において指し示されているイエス・キリストを知ることによって、私たちは神に出会い、神を知ることができます。

 

Q16  「三位一体」ということがわかりません。説明してください

 

先に神はただ一人であるということを記しましたが、神には3つの人格があります。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神で、この3つは一人の神であり、同じ本質と、力と栄光を持っておられます。

三位一体という言葉は聖書には出てきませんが、聖書を読めば、ここには明らかに三位一体ということが教えられていることが分かります。

しかし、これを人間の側で理解しようとするとなかなか難しさがあると思います。

イエスキリストがユダヤ人たちに捕えられて、十字架に付けられた第1の理由は、イエス様が、ご自分を神の子、メシア(約束の救い主)だと証言していたことでした。

大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」

そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。(マタイ26:63~66)

旧約聖書には、やがて神からの救い主メシアがくるといわれていますが、その約束のメシア(救い主)は、ギリシャ語ではキリストです。従って、イエスはキリストであると信じる宗教がキリスト教であり、ここにはイエスが神のみ子であるという信仰があるのです。

 

「私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」(ヨハネ124445

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネの福音書1:18)

 

またイエス様は、私たちに聖霊を遣わすといわれました。この聖霊も神さまご自身であり、父と子と聖霊は、神として同じ本質を持ちつつ、私たちの救いのために働いていてくださるのです。どちらがレベルが高いとか低いとかいうことはありません。絶対者である神をあらわし、神としてのみわざをなさるのは神以外にはありえないのです。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

 

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)

 

聖霊が私たちを導いてくださり、神様に心を開き、信仰を与え、真理を愛するもの、希望に生きるものとしてくださるのです。私たちが信仰を持って生きるようになり救いに入れられるようになるためには、聖霊の働きが必要なのです。

 

Q17 イエス・キリストは、どのようなお方なのでしょう

 

イエス・キリストについては、Q14などにおいても述べたところですが、イエス様はあるとき弟子たちに向かっていわれました。「あなた方は私をだれというか。」

イエス・キリストを誰と考えているかということは、そのまま私たちの考え方や生き方に大きく結びついてくることです。当時の人たちは、えらい先生、立派な教師、権威と力を持った人、などいろいろな考え方がありました。

そのとき弟子たちを代表してペテロは次のように答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)

弟子たちはイエス様とともに生活をし、その生き様を通してこの方こそ神の子である、約束のメシア(救い主)であると確信したのです。

イエス・キリストについて述べているウエストミンスター小教理問答書問い21問、22問をご紹介しましょう。

問21 神の選民のあがない主は、どなたですか。

答 神の選民のただひとりの救い主は、主イエス・キリストです。彼は神の永遠の御子でありつつ、人となられました。それで、二つの区別される性質とひとつの人格において、当時も今も永遠に、神であり人であり続けられます。

 

問22 キリストは、神の御子でありつつ、どのようにして人となられましたか。

答 神の御子キリストは、次のようにして人となられました。すなわち、聖霊の御力によって、おとめマリヤの胎に宿り、彼女から生まれながらも、罪はなく、真実の体と理性的霊魂をとって、人となられました。

 

わずかなスペースで詳しい説明はできませんが、イエスというお方をあなたがどのような方と考え、受け入れるのか、これが私たちの人生にとって最大の急所であるということを述べておきます。

どうぞ、イエス・キリストがあなたにとってどのような方であるのかを、聖書によって、教会に集うことによって追求して下さい。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)これが聖書の約束です。

 

Q18 聖霊とはどのようなお方なのでしょう

 

聖霊については、ハイデルベルグ信仰問答問53に次のように言われています。

問53 聖霊については、何を信じますか。

答 第1には、聖霊は、御父とみ子と、同じに永遠の神である、ということであります。

次に、聖霊もまた、私に与えられていること、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠までも、私とともにいてくださる、ということであります。

 

聖書の中で言われる「霊」とは、原語では「ルアーハ」とか「プネウマ」と言われ、これは「風」とか「息吹」という意味の言葉です。創世記2章7節には、神が人であるアダムをかたちづくり、いのちの息を吹きかけると人は生きたものとなったと言われています。聖霊は、三位一体の第3人格である神であり、この世に生かされているあらゆるものに息吹きを注ぎ、万物を生かしておられるお方であり、特別に選ばれた人に使命を遂行させて下さるお方です。

イエス・キリストは、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)あるいは、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)と約束してくださいました。

ここで弁護者といわれているのは、別の訳では助け主とも約されていますが、聖霊のことです。

この約束の通りに、聖霊が与えられるのですが、使徒言行録によると、聖霊は、ユダヤ人だけではなく世界中の人々に、あらゆる国籍、民族、境遇の人たちに与えられ、私たちを守り導いてくださるお方であることが分かります。

私のプロフィールのところで「よき力に」と題するボンヘッファーの詩を引用してありますが、このよき力とはまさしく聖霊のことです。神を受け入れ、神とともに生きる者は、どのような嵐の時代にあっても「よき力に」守られ、導かれているのです。

 

Q19 天皇制はキリスト教の信仰と相いれないものなのですか

 

私の父も母も軍国主義の教育を受けてきた者ですが、聖書の神を信じ、天皇をも尊敬していました。現在は天皇は日本国の象徴であると考えられています。どの国の歴史もその時の権力者たちによって作られてきたという側面があり、特に明治維新以来、天皇制というシステムによって日本を統治しようとする動きが強まり、やがて戦争に向かうという悲しい歴史をも経験しています。

その当時、天皇は「現人神」といわれ、神であるかのように祀られ、今日でも祭祀としての働きをしていると考えられています。敗戦とともに、天皇の人間宣言が語られ、天皇は庶民に近づいた印象があります。けれども、今でも天皇は人間によって高きに祀られ、様々な権力者たちによって利用されているという面もあります。

今日では、イスラエルの失われた10部族を探しているアミシャブの方々が、神道をはじめとする日本文化と天皇や日本文化に密接な関係があることを訴えておられるということや日本のルーツはユダヤ人や景教のキリスト教の影響を強く受けているということも報告されてきています。真意のほどは分かりませんが、日本人とユダヤ人の文化が非常に似通っているということは興味深いことです。

いずれにしても、天皇制というシステムは人間によって造られたものであり、これ自体は日本以外では通用しないものと言えるでしょう。私たちは人間によって造られた神々ではなく、世界をお造りになったまことの神を信じ従うことが重要なことです。ここで問題にしていることは、天皇の御人格や人間性がどうこうということではなく、天皇制というシステムの問題性を感じています。

日本人にとって天皇制とは何だったんだろうか。あるいは外国人にとって天皇制とは何だったんだろうかということを考えるとき、天皇制には次のような問題点があると思います。

  • 絶えることのない権力争い
  • 差別の固定化
  • 民衆を離れた貴族意識
  • 神ではなく人間が作り上げた人間が偶像化される
  • 日本民族にしか通用しない

日本語の中には、ヘブライ語で理解するとよくわかる言葉がたくさんありますが、「君が代」をヘブライ語で理解すると、次のようになります。

【日本語】              【ヘブライ語】   
君が代は              クム・ガ・ヨワ    
千代に                   チヨニ
八千代に              ヤ・チヨニ
さざれ石の            ササレー・イシィノ
巌となりて          イワオト・ナリタ
苔のむすまで         コカノ・ムーシュマッテ
【歌詞ヘブライ語訳】
神よ、立ち上がって、来てください
シオン、神の選民! 
残りの民は喜び、救いを待ち望みます!
神が御顔を見せてくださる
すべての基はキリストにあり

 

Q20 何を信じて生きるのか、信仰の対象と信心について教えてください

 

聖書の使徒言行録17章21節には、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」といわれています。耳新しいことを追いかけているのです。

流行のハンドバックが発売された。新番組のテレビドラマを放送する、というように、その日その日のことにだけに関心を持っているのですが、これは言い換えると、移り変わるものを求めているが、変わらない確かなものを求めることはしていないということです。

人生の意味や私はここに立って生きていくというものを持っていないのです。耳新しいことに興味がある、ということはつまり未だにしっかりしたものを持っていないということなのです。時代の流れに流されてしまっているのです。

何か耳新しいことを話したり聞いたりすることに一生懸命になって、本物をつかみたい、本物を知りたい、本物にかけたいということじゃなくて、その時代のそのときの目新しいものを追いかけていくだけのものは長くは続きませんから力を失ってしまいます。目新しいものを手に入れた当初はうれしいかもしれませんが、それはいつまでも続きません。これは聖書がいう「喜び」とは異なるものです。

聖書の神様を知るということは、新聞を読んだりテレビを見たり本を読んだりしてわかるというものではありません。そういうことがきっかけになることはあっても、それだけではありません。聖書に出てくる信仰に生きた人たちはどのようにして信仰を持つようになったかといえば、彼らは自分の人生を隠れたり逃げたりしないで、あるいはごまかしたりしないで本物を追求して生きたのです。

アブラハムは、自分の行くところを知らないけれど、出て行った、そういうプロセスの中で神にであうわけです。自分の確かな人生、生きる意味のある人生というものを求めながら生きたのです。そこには失敗があり、混乱があり、悩みがあり、苦しみがあり、そういう中で生きる神と出会うのです。

神様に出会うのは、人生の途上でであうのです。もちろん、本を読むことが一つのきっかけになったり、礼拝のメッセージによって聖書を理解したり、そのみちすじを指し示されたということはあると思いますが、自分の人生のどこかで、神様とであったという体験をするのです。

私が以前に高校生たちに話したことは、「あなたたちは自分の人生をごまかさないで、逃げないで生きてほしい。自分をごまかさないで生きてほしい。学歴や地位やお金や才能、そういうものの中に隠れないで、生きるために本当に大切なものは何だろうかということを追求しつづけてほしい。人はうわべを見るが神は心を見られるのです。人生を思いきって生きるならばきっと神様にであうことが出来る。」本物を追求してほしい。本物とは、時代が変わっても変わらないものです。こういう話をしました。

ですからいくらキリスト教に熱心であっても、何か耳新しいことを聞いたり話したりするだけでは、聖書の神、聖書の言葉は分からないし力にならないんです。

ですから、哲学が生命力を失うように、キリスト教も生命力を失いうるのです。信仰が、趣味や教養の域を越えて、生ける神様と確かなつながりを持ちながら、自分はこの信仰によって生きるということにならなければなりません。そのときあなたは、信仰があなたの生きる力であることを知るようになるでしょう。

神を神とするとはどういうことなのか考えてみてください。それは自分が自分の主人であることをやめて、自分の心のうちにイエス様を私の主、私の神としてお迎えする、この方が私の主人となるということです。

信仰と信心ということですが、信心の場合は信じる対象があいまいで、何でも信じるところがあります。「いわしの頭も信心から」ということばがあるように、いわしの頭でも神様にしてしまって、要は信心が大切だというのですが、本当に大切なことは何を信じるかということではないでしょうか。

信仰という場合には、信仰する対象をしっかりと見つめ、追求し、本当に信じるに足るものであるかどうか(信仰の対象)を熱心に求めること、自分の人生をその信じるものにかけて生きるようになることを意味しています。

 

実を言うと、人間は一生の間、本当に信じられるもの、を追求して生きているのです。それを見出すことが出来た人は幸いです。

 

キリスト教会・新興宗教について

 

Q21 カトリックとプロテスタントの違いについて教えてください、また、教派はなぜあるのでしょうか

 

キリスト教会には、多くの教派があります。しかし、他の宗教、例えば、仏教な

どのように、宗派に分かれているのではありません、仏教などは宗派によって、経典や教典も違い、教えも異なりますが、正統的なキリスト教の場合は、いずれも一つ聖書を正典として用い、信仰の土台としています。ですから、どの教派に属していても、信ずる対象は唯一のまことの神ただお一人であり、神の子イエス・キリストを私たちの救い主と信じる信仰に変わりありません。

もともと新約聖書に記されているような初代教会の頃には、教会はまだ小さな群れであり、現在のような教派もありませんでした。

そしてキリスト教は、やがてローマ帝国の国教となるのですが、こうして受け継がれていった教会は、中世になると教職者の優先や階級制度が取り入れられたり、ローマ皇帝との権力争いをするなど教会の権威を強大にすることに力を注いで、聖書の権威が軽んじられるようになってきました。

カトリック教会では、「人はカトリック教会の教理・制度、組織によらなければ救われない」と言って聖書の権威よりも教会の権威が事実上大きなものになっていました。聖書にない教えや伝承がいろいろと付け加えられて、それが重んじられるようにもなりました。罪を償うために「免償符」を売買するなど、しだいに聖書の教えから離れてしまっている教会のあり方を問い直して、「聖書に帰れ」をスローガンとして宗教改革運動が起こりました。

こうしてカトリック教会からプロテスタント教会が生まれたのです。

そして、プロテスタント教会の中でも、マルチン・ルターの流れをくむルーテル派、ジャン・カルヴァンの流れをくむ改革派、長老派、また英国教会からはピューリタン(清教徒)など、教会政治の形態や礼典(洗礼・聖餐)の方法、聖書解釈の違いなどによっても教派が分かれていったのです。

こうして分かれた、それぞれの教派は、聖書の教えに従おうとする教会改革から生まれてきたものです。

戦前、日本においても天主公教会、ギリシャ正教会の両カトリック教会以外に、いわゆるプロテスタント教会に属するものは30数派ありました。それが戦争中、国家の統制政策によって前記の二つのカトリックと日本キリスト教団と聖公会の4教団に統合させられたのです。

ところが、戦後日本キリスト教団からいち早く脱退して、日本キリスト改革派教会が設立したのをきっかけに、続々と教団を脱退するグループが表れました。また、外国からの宣教師による活動も活発に行われて、現在ではその数も百を越えるほどになっています。

しかし、教派がたくさんあっても、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです(エペソ人への手紙4章5節)。どの教派に属している教会もキリスト者も、ひとりの神によってその信仰を与えられ、神の救いの恵みに生きるように召された人たちです。ですから、私たちは教派を越えて、国籍や民族の違い、性別の違いなどを越えて兄弟姉妹と呼び合い、祈り合い、仕え合うことができるのです。キリスト教の違う教派の人も、イエス・キリストを私の救い主と信じています。この信仰は、父なる神によって与えられたものです。

「改革派教会」というのは、神によって改革された教会神によって改革され続ける教会という意味です。私たちの教会は、聖書によって常に自らを吟味し.、自らを改革し続けていこうとしていく教会でありたいと願っています。

キリストの教会がいろいろな教派に分かれているということは、人間の間にいろいろな個性があるのとよく似ています。それぞれの個体を生かしながら、ひとりの父なる神を神として、聖書のみことばを唯一の規準として、神の前に自らの罪を悔い改めつつ、神に従っていこうとしているのです。

しかし、これまでの教会の歴史を振り返ると、教会において分裂抗争が起こったり、それが多くの血を流すようなことになるということも少なくありませんでした。このことをだれよりも悲しんでおられるのは神様ご自身でしょう。これは旧約の時代からそうでした。

神の民として召して下さった人々が、神に背いてしまうのです。しかし、それにもかかわらず、人間の罪にもかかわらず、神は人間を愛してくださいました。そして、教会を通して、キリスト者を通してそのみこころを実現してくださいました。人問の罪にも関わらず、その妨害にも関わらず、神様はそのみこころを実現して下さるのです。それがこの歴史の物語っているところです。

 

Q22 歴史を学ぶと、キリスト教が争いの種になっているようなこともありますが、どうなのでしょう

 

キリスト教会は、どの教派にある人たちも、「使徒信条」において「われは公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白しています。

「公同の教会」とは、静岡教会なら静岡教会のことだけを考えているのではありません。教派を超えて、国籍を超えて、民族や境遇の違いを超えて、さらには時代を超えて、神様によって導かれた神の民の群れをひとつの公同の教会(見えない教会)と信じているのです。教派に別れていても、あるいは国籍や時代が違っていても私たちはひとつだという信仰がここにはあります。

キリスト教信仰は、このように違いを超えて私たちを一つにつないでいく性質を持っています。ですから、あれは○○派だからということで攻撃したり、敵対したり、排除したりするということは、信仰から生まれてきたというよりは、人間的な権力争いや、感情のもつれや、聖書の教えから離れてしまった結果起こってきたものと考えられます。

次のフランシスコの祈りこそ、キリスト者の祈りであると思います。

「主よ、私を、あなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにはゆるしを、

分裂のあるところには一致を、疑惑のあるところには信仰を、

誤っているところには真理を、絶望のあるところには希望を、

暗闇には光を、悲しみのあるところには喜びを、

もたらすことができますように」。

 

Q23 家庭訪問をしてパンフレットなどを販売している「エホバの証人」はキリスト教なのですか

 

「エホバの証人」は、米国で1870年にチャールズ・T・ラッセルによって創立された新興宗教です。「輸血拒否」事件などでよく話題に上ることもあります。

エホバの証人では、救われるためにはエホバの証人の組織に従うことが必要であり、このためにかなりの時間を割いてパンフレットを売り歩くということもしているので、エホバの証人となった家庭の主婦が、家庭の家事も育児も放っておいてエホバの証人のために出かけていくということで、これまで幾人ものご主人方から相談を受けたことがあります。

エホバの証人では、事実上、神ではなく統治体(エホバの証人の組織)が信仰の対象となり、信仰によって救われるというよりは、エホバの証人の組織の命令に従うことによって救われるということになっているようです。組織内部にはランク付けがあって、上に上がるためには、あるいは救われるためには非常に厳しいスケジュールをこなさなければなりませんから、精神的にも肉体的にも疲れ果てている人が多いように思われます。

4世紀に異端とされたアリウスの説にならって、イエス・キリストは神ではないと主張しています。キリスト教とはイエスが神のみ子であり、キリスト(救い主)であると信じる宗教ですから、エホバの証人はキリスト教とはいえません。

ラッセルは、1914年にハルマケドンと呼ばれる所でサタンの軍勢との戦いが起こり1915年に世界は終わると予言し、その終わりのときまでに十四万四千人の「エホバの証人」があつめられ、この世の政府とこの世の人々は滅ばされて、エホバの証人が新しい世界を統一するようになると預言しました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしたのです。

エホバの証人の聖書解釈は、神について、罪について、救いについて、いずれにおいても伝統的な教会の教えとは根本的に異なっています。これは、聖書が述べている「異なる福音」の教えであり、キリスト教とはいえません。

 

Q24 文鮮明を教祖とし、集団結婚などをしている「統一協会」はキリスト教なのですか

 

統一協会は、統一協会は、正式には「原理福音世界統一神霊協会」という長い名称です。沿革は1923年ごろ、当時韓国の平壌に住む李竜道、黄国柱という二人の牧師が、「自分たちは、今までと違う新しい聖霊を受けた」と言って、「血分け運動」を始めたことに始まります。

それは、「人類の母なるエバは、へぴのようなサタンと姦淫して、サタンの血を受けた。それ以来、人類はだれでもへびの血を受け継いで汚れているから、新しい聖霊を受けた私の血を受けよ。そうすれぱきよめられて、原罪のない子どもが生める」というものでした。そして彼らは、それに共鳴する女性たちと肉体関係を持つようになりました。

1945年、太平洋戦争が終わり、朝鮮半島が38度線で分断されたころ、平壌の朴其

姑から、文鮮明が血分けを受けて、この群れのリーダーになりました。彼はすでに妻子がありましたが、クリスチャン女性金具女を誘惑して、血分け行為にふけっていたところを金女史の夫に見つけられ、告発されて逮捕されました。裁判の結果、姦淫の現行犯として文鮮明は懲役5年十カ月の判決を受けました。

1952年9月、朝鮮動乱に際して、国連軍が北上したころ、彼は刑務所から釈放されましたが、警察の取調べを受けた時、文鮮明は、「迫害、暴行、拷問のすえ、私は死んだが奇蹟的に復活した。イエスは、十字架上に敗北の死をとげてそのままになったが、私は復活したから永遠に生きる。私こそ再臨のキリストである」と言ったといわれています。

文鮮明は、新約聖書は不完全である。そして、今わたしが説く原理講論は、旧・新約聖書の欠けを満たす成約聖書であり、完成された聖書である」というのです。

聖書を採用していながらこのようなことを言うことは、それ自体矛盾です。

聖書がはっきり教えていることは、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(ヨハネの黙示録22:18、19)ということです。

66巻の聖書に「新しいことを付け加えても、これを削除してもいけない」ということを忠実に守っているのがキリスト教会ですから、「私は新しい教えを発見した」などといって聖書に加えようとするのは間違っています。

統一協会の教えについて詳しく説明するスペースはありませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見分けるために一つのかぎがあります。それは、イエス.キリストをだれと言うか、を見ることです。

イエス・キリストをとおして神が歴史の中でただ一回限り、決定的な仕方でご自身を啓示されたのだ、イエス・キリストこそ神の絶対的な仲介者だと信じるのがキリスト教です。

もしイエス様の救いのみわざは不十分であって、それを他の誰かが完成させるというような教えであれば、それはもうキリスト教ではありえません。

 

Q25 モルモン経典を信じている「モルモン教会」はキリスト教なのですか

 

モルモル教会は、正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」といわれ、本部は、アメリカのユタ州ソルトレークシティーにあります。

1830年、ジョゼフ・スミスによって創立された新興宗教です。

「モルモン経」は、元来はアメリカにソロモン・スポールディンクという人がいて、

「アメリカ人はイスラエル民族の分派である」と思い込んで、彼の幻想のおもむくまま、一種の歴史小説を書きました(1812年)。しかし、だれもそれを取り上げてくれない時、ジョセフ・スミスがその原稿を安く買い取り、オリヴァ・カウドリとマーティン・ハリスに執筆させ、1830年に出版したものです。

この二人の助手は、始めの頃、「自分たちはその金盤を見た」と証言したのですが、あとで、『あれは嘘だった』と前言をくつがえしてモルモン教会より脱会しています。スミスは、「この経典は、421年から827年まで、クモラの丘の土中に秘蔵されていた」と主張していますが、モルモン経の中には、ジェームス王(1566~1625年)の命による英国欽定訳聖書(KJV)の訳文そのままを、一千か所も引用していることで、自らのウソを

暴露しているようなものです。

スミスは、その後も次々と啓示を受けたとして、「教義と聖約」、「高価な真珠」などを書かせました。モルモン教会の看板の中には、聖書を横に倒して、モルモン経に手を伸ばしている絵が書かれたものがあります。彼らは、聖書、モルモン経、教義と聖約、高価なる真珠の4つを権威ある書物であるとしていますが、実際には聖書を除いた3つが基準になっているということができます。

彼らの信じる神は肉体を持つ多神教の神であり、アメリカインディアンやアフリカの黒人たちは神に呪われた人種であると考えられています。アダムの罪は子孫には受け継がれず、キリストの十字架は一般的な救いを与えるのみで、本当の救いは、(モルモン教の教える)おきてと儀式を行わなければならないといわれています。

神、罪、救いのいずれの面においても聖書の教えとは根本的に異なる教えとなっており、これもキリスト教ということはできません。

 

Q26 正統的なキリスト教会と異端とではどのような違いがあるのですか

 

ダイヤモンドの鑑定士が、本物と偽者を見分けるようになるためにすることは、本物のダイヤモンドを見つづけることです。どれが本物でどれがにせ物であるのかを見分けるためには、やはり本物を見つづけることでしょう。

わたしは、この日本に於いてオウム真理教やいかがわしい新興宗教がはびこってくることの背景には、キリスト教会の責任もあると思っています。聖書の真理を日本の多くの方々に伝えきれていない。そして多くの人々がまさに飼う者のいない羊のようにさまよっている有様を見るのです。

キリスト教の異端は、今に始まったことではなく、聖書が書かれている時代にもあり、いつの時代にもあったことが分かります。その時代の新興宗教として現れては消滅し、また別のものが名前を変え、形を変えて出現するということの繰り返しでした。

正統的なキリスト教会と異端の違いについても短いスペースでは十分な説明ができないかと思いますが、ポイントになるところだけ紹介しますと、

 

キリスト教の異端とはワンポイント

 

1、信仰と生活の規準である聖書の権威を軽んじて、独自の経典を作ってそれを聖書と同等ないし聖書以上の権威を与えます(聖書のみを否定)。

2、神が三位一体(父、子、聖霊の三つの人格を持ち、しかも唯一の神)の神であることを否定して、多神教的な思想を説いたり、主イエス・キリストの神性を否定するものは異端です。

3、聖書は、すべてイエス・キリスト(による救い)を指し示し・キリストだけが救い主であると述べていますが、キリスト以外に独自の救い主などを作っているものは異端です。

4、自分(のグループ)だけが正しい、他の教派はみな間違っている、などという考え方は聖書からは出てきませんから、こうした狭い見方しかできないものはちょっと怪しいと考えたほうがよいでしょう。

 

信仰生活について

 

Q27 祈りとはどういうことですか

 

クリスチャンでなくても、手紙を書い

た中に、「・・・お祈りしています。」という

文章を入れることがあると思いますし、大学受験の子供の合格発表の時には祈る気持ちになったり、重い病気になったとき、会社が倒産の危機に陥ったときなど、私たちは何者かに祈りたい、すがりたいという気持ちになることがあるのではないでしょうか。

キリスト教の祈りは、先に記したような神様に祈るということが大きな特徴です。祈りはこの神様との対話であるということもできます。

しかし、私たちが祈りの出発点になるのではありません。私たちが神を知ることができるのも、祈る心やあきらめない信仰や感謝、愛のわざなどに導かれていくのも、実は神様が出発点であり、神様が与えてくださったことに気づかされます。

聖書の信仰をもって生きた人の祈りをよく見ていくと、それはみな、神様が語ることを聞くことから祈りが始まっていったことが分かります。

詩篇50編15節には「それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。」という言葉があります。あるいは、1テサロニケの手紙5章17節には、「絶えず祈りなさい。」といわれています。私たちにいのちを与え、育み、毎日の生活を守り支えていてくださる神様は、私たちに応答を求めておられます。

「愛の反対は無関心である」とある人は言いましたが、私たちを愛してくださっている神様は、私たちもまた(無関心ではなく)互いに愛し合うことを求めておられるのです。

 

Q28 毎日の生活の中でどう祈ったらよいのでしょうか

 

聖書には、「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)と言われています。

あるいは、あきらめないで熱心に祈り続けること(ルカ18:1)、戸を閉じて、密室で、神様と向き合って祈ること、祈る心を教えたパリサイ人と徴税人のたとえ(ルカ18:9~14)など、祈りについては多くのことが教えられています。

そして、弟子たちが「祈るときにはどのように祈ったらよいのでしょうか」と尋ねたときにイエス様は、「主の祈り」を教えてくださいました。

祈ることは関心を持つことです。坂本九さんの「上を向いて歩こう」という歌がありますが、心を上に向けて、神様を仰ぎながら生きることが祈りであるといってもよいでしょう。

大切なことは、心を神に向けて、自分の心のうちにあるありのままを神に申し上げることです。他の人に聞いていただくというよりは、私たちの思いを知っておられる神に祈るのです。祈りには、感謝、賛美、訴え、願い、求め、告白、とりなしなど、さまざまなことがあると思います。

そして祈り、み言葉を聞く中で、私たちは自分の願いではなく、神様の願いはなんだろうか、神はどんなことを喜んでくださるのだろうかということを求めつつ祈るように示されていくと思います。これまでは自分が神のようであったのですが、これからは神を神として生きていくことを教えられるのです。

現代人は便利な生活になったといっても、かえって毎日があわただしくて、時間に追われて毎日を過ごしているという感があります。それだからこそ祈りが大切だといえるでしょう。祈りは、忙しく過ごす私たちに、神の前で自分を整え、神と向き合い、自分と向き合い、他者と向き合うことを私たちに教えてくれます。人生において何が大切であり、何を求めて、どのように生きるのかを祈りの生活において教えられていくのです。

体のために食物が必要であるように、私たちの心の健康のために祈りが必要なのです。

どのように祈ったらよいのかというご質問ですが、先の聖書の箇所に加えて、簡単にできる祈りをご紹介しましょう。それは、朝、目覚めたとき床の上で、「主よ、今日一日をあなたにおささげします」と祈ることです。

同じように、夜、眠りにつくとき、床についてからでよいですから、「今日一日を感謝します」と祈るのです。1日の自分の働き、今日も神によって養われ導かれたこと、人々との交わり、うまくいったことも失敗したことも、父なる神の前に思い起こして感謝します。1日を神様を覚えてはじめ、神様を覚えて終わるようにすることです。

数えてみよ主の恵み、という聖歌がありますが、神様の恵みを数えてみると、数え切れない恵みのうちに私たちは生かされていることに気づかされます。

 

Q29  キリスト教では先祖を大切にするということをどのように教えていますか

 

聖書には、「あなたの父と母を敬え」という言葉があります。

私たちは、父と母によってこの世に生を与えられ、育まれてきたわけですから、両親を敬うのは当然のことです。

しかし、この言葉は、単に両親のことだけではなく、自分よりも目上の人や先輩、祖先を敬うことを教えています。

このことについてのハイデルベルク信仰問答の104問にはこのようにいわれています。

ここで神が私たちに望んでおられるのはこういうことだというのです。

「わたしが、私の父、母、および、わたしの上に立つすべての人々に対して、一切の栄誉と愛と真実とをあらわし、みずからを、正しい服従をもって、すべてのよい教えと罰とに服させ、彼らの過ちをも忍ぶことであります。なぜならば、神は、彼らの手を通して、われわれを支配することを、望んでおられるからであります。」

目上の方を敬い、従うことを神は望んでおられるのですが、私たちにとって、最も目上の方は誰かといえば、私たちをお造りになった神様ですから、私たちは聖書に基づいて、何を神は望んでおられるのか、何を喜ばれるのかということをよくわきまえ、祈り求めていく必要があります。いかに目上の人の命令であるとはいえ、神が悲しまれるようなことはすべきではないのです。

例えば、かっての戦争では、人間の愚かな罪のために、国籍や民族の違いを超えて、実に多くの人々の血が流されました。今日でも、自殺、虐待、いじめ、暴力、などによって多くの人々のいのちが奪われたり、差別や偏見などによって人の心を踏みにじるようなことが行われていくことがあります。

また、神によって命を与えられ、育まれてきた人たちが、神を忘れて、偶像を祀るようになることも神様のみ心を悲しませることです。このようなことを避けて、私たちは真実な意味で父母や先輩たちを尊敬していきたいと思いますし、子供たちからも敬われるような人格を培っていきたいものです。

 

Q30 どうすれば「神の呼びかけ」とか「みむね」がわかりますか

 

神様は、あくまでも自分を超えた存在であることをわきまえてください。そうすると、自分の判断や推測によってではなく、神によって教えられなければこれは分からないことに気づかされます。すなわち、神の言葉である聖書によって、啓示によってはじめて私たちは、神がどういうお方であり、神のみこころが何であるのかということを知ることができるのです。

神のみこころを実感として分かるようになるためには、礼拝や祈りの経験が必要になるでしょう。神の前に静かに自分を振り返るという習慣をつけると、少しずつ「神のみこころ」が分かるようになってきます。

そして、神様が願っていると思ったことをやってみましょう。それで心に深い喜びを感じたなら、それは神の前に正しい判断だったのです。神様は、私たちに表面的な喜びではなく、存在の根源に触れるような深い喜びを私たちに与えてくださいます。

 

Q31 神様の愛を知っているはずの信者がなぜかげ口を言うのでしょう

 

キリスト教会に集まるような人は、みんな清い人たちだ、と思っている人も少なくないと思います。そして実際に教会に行ってみると、こうした陰口や苦情を聞いてショックを受けるという方もあるかもしれません。

イエス様は、「医者を必要とするのは病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためにきたのです」(マタイ9:12)といわれました。パウロも正直に自分のことを振り返って、「わたしは自分がしたい善は行わず、したくない悪を行っている。善をなそうとする意志はあるのですが、それを実行できないのです。」(ローマ7:18、19)と告白しています。

教会においても、ついつまらないうわさ話を交わしたり、陰口をたたいたりなどして、しかもそれがどんなに人を傷つけるか、ということに気がつかないでいたりすることもあります。あるいは、嫉妬やえこひいきなどをしてしまうこともあります。

そういう私たちだからこそ、教会にきているんだということを覚えましょう。大切な事は、神様と自分との関係を深めていくことです。そうすると、自分を棚に上げて、人を批評するようなことは慎むようになります。

イエス様が私たちにお命じになったことは、「互いに愛し合う」ことでした。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、みなが知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:34、35)。

「私があなた方を愛したように」とあるように、聖書を学び、それを理解するようになると、神様が私を愛してくださっていることを知ります。そして、イエス様が私を愛しておられるような「愛」にふれるようになるのです。

イエス様が愛されたような「愛」とは、どういうことでしょうか。あなたも聖書を読みながら、自分に当てはめて考えてみてください。自分自身がこのような神様の愛に触れること、神様の愛を身近に感じていくことが、この問題の解決になっていくと思います。人が変えられていく世界があることを、人にはできないが神にはできるという世界があることを体験してください。

 

Q32 神が愛の神であるならなぜこの世の中には苦しみがあるのですか.

 

聖書によれば、人類がおかれた世界にはもともと苦しみがあったわけではありません。神が私たちに与えてくださったエデンの園といわれる世界は、苦しみも恐れもない世界でした。

ところが、人間の始祖であるアダムとエバが神に背いたために、この世界には罪が入り、死が入り、恐れや苦しみが入ってくるようになりました。罪のために私たちと神との関係が、以前のような正しい、親しい関係ではなくなってしまったのです。

罪のうちにある今の私たちは、神様が最初に造られた様な本来の人間の姿からはかけ離れています。人は神とともにいのちの恵みにふれて生きるように造られたのですが、私たちは自然に主なる神を礼拝したり、神様を求めたりしません。かえって、神様なんかいなくてもやっていけると思い込んでしまったり、自分のために(自分に仕える)偶像を作ったり、自分が神であるかのようにふるまっているのです。ここに罪の本質があります。

親が子供のためにいのちを与えてくれたり、生きるために必要なものを整えて、一生懸命に育ててくれても、感謝もせず、無関心で、心を向けようともしない子供がいたらどうでしょうか。私たちは神様に対してこのようにしているのです。神の恵みなしには私たちは一瞬たりとも生きられないものであることを忘れてはなりません。

この世に苦しみや、さまざまな問題がある根本的な原因は、私たちのうちに罪があること、そして私たちと神様との間の関係が損なわれていることにあります。

しかし、聖書には、神はこのような罪と死の内にあるもの、神様にも自分にも、人にも罪を重ねてきた私たちを愛して、私たちが本来のいのちの世界に生きることができるように、人間らしい生き方を取り戻していくことができるように、神様が働いておられることが語られています。

また、聖書には、「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。」という言葉があります。神様は、私たちにとって苦しむことが必要だから、それを与えられるという面もあるでしょう。病気になって初めて、病気の人の気持ちが分かります。何もかも自分の思い通りにいくような人生を送った人は、傲慢になり、自分をも欺き、人の気持ちも分からないようなことになってしまいます。

 

Q33 外国ではクリスチャンが大勢いるのに、どうして日本ではクリスチャンは少ないのでしょうか

 

食べ物の場合、食べたことがないのに、食べようとしないのを食わず嫌いといいますね。日本人の多くの人々の心には、キリスト教は日本の宗教ではないという先入観のようなものがあって、キリスト教を知らないままに受け入れようとしない、あるいは批判的に見る人が大勢あるように思われます。

日本に最初にキリスト教が伝えられたのは、1549年、フランシスコ・ザビエルによってでした。当時の日本の大名であった織田信長などは、珍しいものを提供してくれる宣教師を歓迎しましたが、しだいにキリスト教が広まるにつれて、キリスト教は危険思想として弾圧されるようになっていきました。鎖国をした大きな理由は、キリスト教を排除するためであったといってもよいのです。

その理由は、聖書自身のうちにあるとともに、当時の日本の指導者たちのうちにあります。当時の日本の指導者たちは、封建思想のなかで、お上に背いてはならない、という日本の社会秩序が、キリスト教が広がることによって根底から覆されることを恐れたのです。

聖書には、神は唯一であり、すべての人は、それが王様であれ、大名であれ、どんな人であれ、主なる神に聴き従うべきことが求められています。このために、クリスチャンになった大名が、私は神にしたがうので、人殺しをするようないくさには協力できない。年貢を必要以上に取り立てるべきではない。などということを言い出したのです。

それで、このような教えが広まっていけば、人々が指導者の言うことを聞かなくなるということを恐れたのです。

鎖国が終わり、明治時代になってからも、日本政府の方針は、天皇制を軸にした日本社会を築いていくという方針を立てました。特に戦争に向かう中で、治安維持法などが作られて、キリスト教はここでも迫害の対象となりました。

かって、4人組制度が作られたのも、クリスチャンを監視させることが大きな理由でした。このような歴史を通ってきたために、今日でもキリスト教を正しく理解している日本人は少ないのです。よく知らないで、キリスト教は外国の宗教だ、などという先入観で批判することがあります。これは非常に残念なことです。

 

Q34 日本に於いて「個の確立」が未だにできていないことは、キリスト教が根付いていないことと関係があるのでしょうか

 

外国に行って、これは日本人として改善していきたいと思うことの一つは、「個の確立」であると思います。外国に行くと、あれは日本人だ、ということがよく分かるといわれます。パーティなどにいっても、日本人は日本人同士でかたまって、それも片隅の方で目立たないようにしていて、あまり話すこともない。話していても自分の意見をもっていない。という印象が強いと言われています。

なぜこうなってしまったかといえば、私たちは、あまりにも自分の考えや生き方を、周りの人に合わせるという仕方で過ごしてきて、そのやり方が身についてしまっているようです。周りの人がルーズソックスをはいていれば自分もそうする。周りの人が流行の服を着ていれば、自分もそうする。周りの人が戦争のために熱心であれば自分もそうする。というように、常に自分は集団の中に埋没させて、流行に流されていくというような生き方になっているのではないでしょうか。

こうしたところでは、自分が何かということがわかりません。自分の価値観や自分が生きる目的や生きがいというものも相対化されていきます。

あなたも、これまでの生活の中から、自分を含めて、人間の心は移ろいやすいものだと思われるのではないでしょうか。時代によって、育てられた環境によってこれはずいぶん揺れ動くものです。このように揺れ動くものを基準にしておれば、私たちの人生の生活の軸もいいかげんなものであって、揺れ動くことになります。

神の言葉である聖書は、私たちを写し出す鏡ですから、聖書を通して私たちははじめて自分を見つめ、本当の自分と出会い、自分らしく生きること、人間らしく生きることを教えられていくのです。聖書が教えている神が、どんなに深く、大きな愛を持って私を愛していてくださるかということが分かるようになります。

それはそのまま、自分を愛すること、他者を愛することにつながっていきますから、聖書の神と出会うことによって、人権の思想、福祉の思想と実践がここから生まれてくるのは必然的なことです。

 

Q35 信仰と生活はどのようにかかわっているのですか

 

現代は分裂させようとする力が強く働いている時代です。青少年のいじめや犯罪、親による子供の虐待、自殺の増加がこのことを物語っています。

これに対して、信仰とは、信じるに足るものを持っているということであり、信頼関係を持っている人が信仰者と呼ばれます。

信仰において最も重要なことは、信仰の対象がどのようなお方であるかということです。日本には「いわしの頭も信心から」ということばがあるように、いわしの頭でも何でも信心する心が大切だという考え方がありますが、これは信仰の考え方ではありません。信仰を持つとは、「私はこの方を信じる」という、自分が確信を持って信じている信仰の相手を持っているということです。

神様は、私たち人間を信じて生きるものとしてお造りになりましたから、私は何も信じるものがない。信じられる人がいない、というような人生にはむなしさを感じるものです。私はどの人も例外なく、心の奥底で求めているものは、自分が信じられる人、信頼して喜びや悲しみをともにしていける人を求めているのだと思います。

赤ちゃんとして生まれたときには、無条件で親を信頼します。でも、大きくなるにつれて、親にもいろいろと限界があることに気付かされます。好きな人が出来て結婚したときには、もちろん信頼して結婚するのですが、結婚生活を続けていくと、相手のいやな面が気になってくるということもあるでしょう。

人格のないものは、私たちの喜びや悲しみを理解することは出来ませんから、これは信仰の対象にはなりません。また、死んだものや私たち人間のレベルよりも低いか同じ程度のレベルのものは、信仰の対象にはなりません。

また、信じたけれど裏切られてしまった、信じたけれど人生がおかしくなってしまった、ということでは、それは正しい信仰の対象を信じたのではなかったのです。

私たちは、自分が心の中で求めつづけてきた、まことに信じるべきお方に出会い、この方をわが主として生きるようになると、それは、その人の生活のあらゆるところに影響を及ぼすようになります。

聖書のガラテヤ人への手紙5章22節以下には次のように言われています。

 

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

 

人生において、その人が何を信じて生きるのかということがその人の生活にそのまま反映してきます。

例えば親から、虐待されたり、「お前はだめな人間だ」などといわれ続けてきた人は、知らず知らずのうちに、自分に対する自信が持てなくなったり、不安や恐れを抱くようになります。「俺はどうせ何をやってもうまくいかない」ということを言われ続け植え付けられた人は、将来に対する希望を持つことも難しくなってしまうものです。

 

私たちは、自分の人生を実りあるものとするために、本当に確かなものを見出し、信じることがとても大切なことなのです。

 

いのちと希望に向かって

 

Q36  21世紀を迎えるといっても、暗い時代であるように思います。自殺率の増加、自然破壊、青少年の凶悪な犯罪、虐待、大企業の倒産など、将来に希望が持てません

 

NHKのテレビ番組の中で、「急増する青少年の犯罪」というテーマで、高校生たちがスタジオにきて、弁護士や教育評論家、映画監督などを交えての討論が行われたことがありました。その中である方が、「子供たちが大人になって、『大人になったらこんなにいいことがあるよ』という希望を与えることができなくなっていることが問題だ。」といっておられました。

希望がないというのは深刻なことです。しかし、これは何も現代に限ったことではないでしょう。イエス様も、「人々が飼う者のない羊のようにさまよっているのを見て、言われた。」と聖書にも言われています。実は先の問でも答えた「罪」が入ってきたときに、希望も失ってしまったのです。

ここで言う希望は、線香花火のように一時的に消えていくような希望ではありません。私たちは、神の救いを知らなくても、例えば、○○大学に入学したい。○○会社の重役になりたい。○○選手権で優勝したい。○○さんと結婚したい・・・というような願望をもつことはあるでしょう。しかし、これは願望であって希望ではありません。

願望は、自分のうちから出てくるもので、時とともに移り行くものです。希望する学校に合格できるかどうかはわかりませんし、合格すれば、その目標は失われてしまいます。さて、次はどうしようか、何を自分の目標にしようかということになるのです。

神によって与えられる希望の特長は、決して失望に終わることがありません。また、時代の変化や周りの人々の状況などによって揺れ動くこともありません。私たちの造り主であり、養い主であり、父であるかたのもとに帰ること、天のふるさとに向かって生きることがクリスチャンの究極的な目標であり、希望なのです。

ですから、人生の目標は、天のふるさとに帰るための備えをすることであるといってもよいのです。もちろん、そこに至るまでの過程において、小さな目標をもち、自分なりの願望をもつことはあるでしょう。しかし、この希望があるゆえに、クリスチャンは、どんな困難な状況におかれても、死を宣告されるようなことがあっても、希望をもって前に向かっていくことができるのです。

 

37 どうしても嫌いで愛せない人がいます。クリスチャンとしてどうしたらいいでしょうか。

 

すべての人と平和に愛し合って生きていきたいものですが、なかなかそうはいかないものですね。ときには人間関係が上手くいかない人、苦手な人というのも生まれてくるものです。

以前、高校生たちに聞いてみたことがあります。それは、好きな人と苦手な人を思い浮かべてもらって、その人のどういうところが好きなのか、どういうところが苦手なのかを答えてもらうものでした。すると、好きな人に関しては、「話を聞いてくれる」「黙っていても気持ちをわかってくれる」「共感してくれる」などが挙げられました。反対に、苦手な人は、「自分のことばかり話す」「周りの空気が読めない」「悪ロを言い過ぎる」「都合のいいときだけ親切にしてくる」「共感してくれているようで本当はしていない」という答えが返ってきました。

私はいまだかつて、嫌いな人に会ったことがない。好きになることがどんなに人を助けるか、私は知っている。

これは淀川長治さんの言葉ですが、おそらく淀川さんは人を、嫌ったり・避けたり・苦々しく思ったり・嫉妬したり・・・ごくごく普通の人間であるけれど、ご自身をコントロールしていくことで 「私はいまだかつて、嫌いな人に会ったことがない」 と言い切れる境地に達したのだろうな、と思います。
「境地」などというと何か卓越した人のように思われるかもしれませんが、それは卓越した人間というよりは、主なる神に出会うことによって変えられていく現実でもあると思います。

  • 神の前における自分の罪を正直に認めること
  • 私とともにおられる神の愛と恵みがどれほど大きなものであるのか

これが分かるようになるとともに、自分の中に平和がやってきます。神との平和は、自分自身との平和をもたらし、他の人との平和をもたらすのです。

特に自分と違う意見や境遇にある人との出会いは貴重なものです。自分が成長させられたり、気づかされたりするチャンスです。そういうときには、「イエス様がこの人の姿をとって私のところにおいでになったのかもしれないゾ」と思ってみたりします。その人が自己中心に振舞っていても、難しいと思われる人であったとしても、そうした出会いをも大切にしたいものです。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ2540)

 

38 洗礼は、どうして受けるのですか。

 

洗礼を受けると、何か取り返しのつかない領域に踏み込んでしまうようにかんじる人がいるかもしれませんね。洗礼は、イエス・キリストを心に信じ、受け入れた人が、その信仰を神と人の前で公に現すものです。それは、新しい出発点と言うことができますが、洗礼を受けることは天国行きの切符とか、信仰者としてすでに完成したことの保証印のようなものではないのです。

ところで、なぜ洗礼を受けるのでしょうか。まずイエス様は、ご自身がヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けることによって、神に従う者としての模範をお示しになり(マタイ315)、また、御国に行く前に、弟子たちに向かって「バプテスマを授けなさい」とお命じになりました(マタイ281920)。そして、イエス様の教えと模範に従い、バプテスマは初代教会において忠実に受け継がれていきました(使徒24142〕。

バプテスマは、今までの古い自分()がキリストの十字架とともに滅ぼされて死んだこと、そしてキリストが死人の中からよみがえられたように、新しいいのちが自分に与えられたということを象徴しています。

洗礼を受けても表面的には変わらないように見えます。しかし、霊的には罪の奴隷状態から解放され、キリストのいのちにあって生きる者とされているのです(ローマ669)。それは、キリストの血と霊により、神様が保証してくださることです。

バプテスマは、信じる者のうちに起こった霊的出来事を表明する信仰告白です。私たちは体の汚れを水で洗い流します。

でも心の汚れは自分では洗えません。イエス・キリストは、私たちの魂のけがれと罪を洗い清めてくださり、魂の救いを得させてくださったのです(1ペテロ321)

また、洗礼はキリストのからだ(教会)につながることです。私たちは、ひとつの教会で成長します。キリストはかしら、私たちはその手足、器官です。ともに神様を見上げて礼拝するなかで信仰が育っていきます。

神の子、イエス・キリストを信じる信仰によって、死ぬべき私たちは救われ、神様から永遠のいのちを与えられたのです。このことを信じて受け取るのなら、私たちも神様の子どもとされます。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」(テトス35)

神様が心をご覧になるお方なら、神様と自分との関係なのだから、洗礼を受けても受けなくてもどっちでも良いのでは?と言う人がいます。でも、洗礼を受けることは神様からの豊かな恵みであり、神様とともに人生を歩んでいく決心を揺るぎないものとします。信仰なき歩みとは区別されます。

神のひとり子イエス・キリストが、ただひとつのかけがえのないいのちを私たちに与えてくださったのです。私たちの人生はただ一度きりです。イエス様は、永遠の滅びから救い出してくださいます。あなたも恵みに招かれています。信じて、キリストとともに新しいいのちの人生を歩みませんか。

 

39 神様と距離を感じるとき、祈る気さえおこらないのです

 

教会に行けなくなっても、聖書を読めなくなっても、賛美をささげられなくても、祈りはあったのですね。

突然、なんの理由もなく神様と距離を感じることはあります。その逆に、主を愛しているという思いで心がいっぱいになることもあります。信仰は感情ではないと言われますが、感情も大きく左右するものです。ですから、気持ちがなえると主を愛することができなくなることもあるでしょう。もちろん、はっきりとした意思、決断、信仰で主を愛することを選び取ることもあります。

また、祈りが聞かれないと思うとき、「主は私の言うとおりにしてくれなかった」「私の願ったとおりにしてくれなかった」と思います。そうすると、主への不平不満ばかりがつのり、「主はわたしを愛していない」「主に信頼しても裏切られる」と、本末転倒な思いを抱くのです。

ときに主は、私たちに「沈黙」という距離を置かれることがあります。しかし、それは主が私たちを嫌いになったとか、私たちを見捨てた、ということではありません。私たちを愛するがゆえに、主のみこころに従ってなされることです。しかし、主は、沈黙の後、必ずあなたをご自身のもとへ引き寄せてくださいます。むしろ、距離をつくるのは私たちのほうです。主がいくら語ってくれてもふてくされ、耳を閉ざしてしまう。主はあなたを愛しているのに、一方的に嫌って距離を置いてしまう。身勝手なのは私たちです。よく考えてみれば、「学校でいやなことがあった」「会社の人間関係がうまくいかない」「最近気分がのらない」と、自分の気持ちに左右され、ついでに神様のこともめんどくさい、ということがあるのではないでしょうか?

距離を感じたときこそ祈ってください。「お父さま」とその名を呼んでください。きちんとした祈りの姿勢をとらなくても、あなたの心を主に向け、ひとこと発してみてください。そうすれば、その距離はそれ以上離れていくことはなく、それどころか、あなたはイエス様のところに戻っていけるのです。

神様は、ありのままのあなたを受け入れてくださるお方です。罪があり、弱さを持ち、素直になれないときも、「神様、素直になれない私です。祈ることにも苦痛を感じています。」というようにあなたの心をそのままに神様に告白してください。

距離を感じたとき、そこでじっとしているのではなく、歩み寄ることが大切です。神様はそうしてくださったではありませんか。

「キリストは神の御姿であるお方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ268)

もう一度、主が私たちに近づいてくださったように、謙遜になって主に近づくべきではないでしょうか?こんな罪人が主と交わり、友となる。これほどの光栄はありません。

 

よそ行きの衣を着て、取り繕って神様に出会う必要はありません。むしろ、裸になって、ありのままの私でもって、神に祈り、主のみ声を聴きましょう。

 

40 どうして神様は賦練を与えるのですか?

 

私たちの人生にはいろいろな痛み、苦しみがあります。それは肉体の痛みだけではなく、精神的なものもあるでしょう。

そして「どうして自分ばっかりロ」と感じるくらい、続けてつらい思いをすることもあります。そうなると、苦しくて顔をあげることができず、先が見えなくて失望したり、耐えられなくなったり、人に八つ当たりしてしまうこともあるかもしれません。また、自分の周りで「これでもか」というくらいたくさんの試練を経験している人を見ることもあります。そんなとき「神様どうしてP」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。

でも、覚えていてほしいのです。神様は決して無意味なことをなさらないということを。すべてのことには必ず意味があります。だから、白分があっている試練も、他の国の人があっている試練も意味があるのです。

試練の意味は、人それぞれ違うので一概には言えません。それを知りたいなら、主の前に静まることです。静まって神様に聞いていくなら、その試練の意味や、原因や、解決方法が示されるかもしれないし、慰めや励ましが与えられるかもしれません。

確かに言えることは、夜の後に必ず朝がくるように、やがて真っ暗闇、試練の真っ只中にも光が差すときがくるということです。聖書にはこう書いてあります。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント1013)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ828)

「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(1ペテロ17)

今とおっている試練をやがて振り返るときがきます。そのときには、この詩篇の著者の言葉に共感することでしょう。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇11971)

 

41 祈っているのに、なかなか祈りが聞かれないのですが?

 

祈りの答えは三つあると思います。それは「YES」「NO」「WAIT」です。なんでもかんでも、自動的に言われるままに願いごとがかなえられていくなら、「アラジンの魔法のランプ」になってしまうでしょう。しかし、神様は私たちの「父」なのです。

子どもはお父さんに遠慮なくなんでも話します。お父さんも喜んで耳を傾けてくれます。そして、子どもの願いを受け取って、本当に良いものであれば「YES」。それが最善ではなく、子どもにとって有害であったら、どんなに欲しがっても泣いても「NO」と答えるのです。そして、今はまだ時でなければ「WAIT」です。

そもそも私たちは、祈りは神様に「話す」ことだと思ってはいなかったでしょうか。もちろん、神様に向かってなんでもお話しし、どんな思いでも打ち明けて良いのです。そういう意味では「話す」ことと言って良いでしょう。しかし、祈りは「聞く」ことでもあります。自分の願いのために神様に動いてもらうのではなく、神様のお心はどこにあるのだろうかと、神様に聞いていくことなのです。祈りを重ねていくうちに、だんだんわかってきます。それが神様のお心にかなうことであったかどうか。

イエス様もゲッセマネでこう祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と(ルカ2242)

もちろん、すぐに答えがわかるわけではないでしょう。

「WAIT」なのか、「NO」なのかわからないこともあるでしょう。

気が短く、インスタントを求める白分を思うときには、ぜひ創世記25章を読んでみましょう。21節には、「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった」とあります。たった一節のなかに書かれているので、祈ってすぐに答えられたように感じてしまいますが、実際には、イサクがリベカをめとった年が40(20)、エサウとヤコブが生まれたときに60歳でした(26)。彼は20年近くも待って、祈りの答えを得たのです。

 

42 神様の愛はわかるんだけど、自分のことをどうしても好きになれません

 

なぜ自分のことが好きになれないのでしょう。自分のいやなところをいろいろと知っているからでしょうか。たしかに、私たちは罪を犯しながら生きていますよね。「今日もまた自分勝手に生きてしまった」「今日も美しく生きられなかった」など。

でもそれは、ほこりをまき散らしながら生きているのに、何も思わず、高慢になって生きているよりかはいいのかもしれません。高ぶって自信満々でいるのも困ったものです。しかし、そうかといって、自分はだめだ、だめだ……とばかり言って「自己卑下」するのも良くありません。

ではどうしたら良いのでしょうか。「高く」もならず「低く」もならない、ちょうどいいところの「白己像」。それは、やはり聖書の語る「自分」を知ることなのです。

聖書は確実に、私たちは罪人であると語っています。そしてそのとおり、ほこりをまき散らしながら生きています。そんな自分をよく見たらとても「高慢」になどなれないでしょう。

「高くならず」……。

そして、もうひとつ。そんな私たちの罪のためにイエス様は十字架にかかってくだった、という事実です。ひとつ残らず、ひとつも背負い忘れず、あの身代わりの十字架にイエス様はかかったのです。その十字架の確かさ、力強さをみことばははっきりと語ります。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(1ペテロ224)

たしかに、「罪を犯す私」ですが、イエス様にあって「赦された私」なのです。そこを忘れてはいけません。「もうおまえに罪はひとつも見えないよ」と言ってくださっているのです。

ただイエス様の十字架にあって、です。そんな赦された自分を知ることです。「低くならず」……。

神様は、あなたの罪を帳消しにするため、御子のいのちさえお与えになったのです。ならば、もう赦されているのですから、大丈夫なのですから、笑っていてください1神の子であることを喜び楽しんでいてください。

 

Q43 人問は死んだらどうなるのでしょう

 

仏陀は、人間の人生には苦しみがあること、死を免れることはできないことを語り、それらを甘んじて受けることを教えました。キリスト教は死にたいする勝利を語り、罪の赦しを語り、救いの福音が私たち一人一人に向けてもたらされていることを述べています。私たちはそれを信じていただくならば、死を恐れることはないということを教えています。

仏陀は、死を甘んじて受けるようにと教えましたが、聖書によれば、死は甘んじて受けることができるようなものではありません。聖書が語るところの死は、肉体の死の後にやってくる永遠の滅びというさばきをもたらすものだからです。<BR

聖書は、「すべての人間は死んだ後神のさばきを受けることが定められている」といっています。すべてのものが、造り主である神の前に罪ある人間だからです。「(神の前に)正しいものはいない。一人もいない」というのです。

私たちは、一人残らず罪と死からの救いを必要としている存在です。罪とは的外れということであり、あるべきところにいないこと、神によって造られ生かされているにもかかわらず、まことの神をあがめようとせず、感謝もせず、自分が神のような思いに陥り、神に背き続けていることです。その行き着くところは永遠の滅びです。

神を神としてあがめようとしないもの、罪あるものはすべて神のさばきを免れることはできません。ところが、キリストの十字架と復活についての項で述べたように、神は私たちを救うために、罪のない神のみ子イエス・キリストを今から2000年前に人としてこの世に送ってくださったのです。

聖なる神様は、罪をいいかげんに見過ごすことはできません。罪はいかなる罪も神によってさばかれるのですが、この罪のさばきを、私の身代わりに神の子イエス・キリストがあの十字架の上で受けてくださいました。十字架には神の愛と神の義がひとつに表されています。

やがて私たちはこの肉体の死を迎えた後のことですが、世の終わりのときに、私たちはすべて神のさばきの前に被告人として神の法廷に出されることになります。その時、悪魔は私たちを告発して言うでしょう。

「神様、ご覧ください。ここにこの人の罪状があります。「この人は、あなたによって創造され、あなたによってあらゆる良きものをいただいてきたにもかかわらず、感謝もせず、神をあがめようともせず、神の栄光を死んだ人間や木や石や金銀などで造ったものにすりかえて偶像礼拝をしていました。

あなたを求めようともせず、礼拝もせず、自分の欲望を満たすことをしたり、隣人を愛するよりは自分勝手な思いにふけったり、うそ偽りを重ねたり、人を傷つけるようなことをこれほどにしてきたのです。

自分を神とするような傲慢な思いがいつも心の中に渦巻いていました。彼らには弁解の余地がありません。どうぞ死罪にしてください。」

しかし、信仰によってイエス・キリストにつながっている人は幸いです。

その時、イエス・キリストは、私たちの弁護者としてこのようにいわれるのです。「確かにこの人の生涯をみると神の前における罪は明白です。しかし、この人が受けるべき罪の刑罰は、私が身代わりに受けたんです。この人は私の救いを受け入れましたから、信仰によってすでにこの人の罪は赦されています。」

このようにして、罪の赦しの根拠というものを、私たちは、イエス・キリストによってすでに受けているのです。神の子イエス・キリスト以外に私たちを救いうる名はほかにありません。

コリント信徒への第1の手紙15章には、「朽ちるものに蒔かれて、朽ちないものに復活する」(42~58節参照)と言われています。時間の中に蒔かれるのですが、それは永遠のものとして実ります。種子としての姿は壊れてまったく別のものになるのですが、それは別のものではなく、その種子の実った姿です。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

(1コリント15:42~45)

死んだ後、どうなるのか、聖書は私たちのこの世の人生のことだけではなく、死後に続くいのちの人生のためにその救いの恵み(神様が私たちのためにしてくださったこと)を私たちに語っているのです。

 「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:16)。

 

Q44 神に従おうと思ってもなかなかできない私です。つくづく自分の至らなさ、未熟さを感じます。こんなものにも希望があるのでしょうか

 

大切なことは、あなたが何をしているのか、してきたのかということではなく、あなたが誰とつながっているのかということです。

新約聖書の使徒の働きを見ると、パウロはイエス様に出会ったときに先ず最初にした質問は、「あなたはどなたですか」という質問でした。この質問こそが私たちが神に向けて問うていくものであり、私たちが何をおいても最優先に追求していくべきことがらです。私たちの神様が、どなたであるのか。どういう神様であるのかということを追及し、このことが分かってくると、あなたの不安は解消されていくことでしょう。

聖書が私たちに求めている最も核心的なことは、行いではなく、所属なのです。

イエス様は、「わたしはつみびとを招くためにきた」といわれました。そして、罪あるままで私のところに来なさい。あるがままの自分、そのままの姿で、わたしのところに来なさい、と言って下さいます。枝が幹につながって初めて養分を吸収し、いのちの営みをすることができるように、私たちはイエス・キリストにつながることによって、実を実らせることができるようになるのです。

 

Q45 どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか

 

トヨタ自動織機を発明した、現在のトヨタ自動車の創立者である豊田佐吉氏の有名な言葉に、「障子を開けてご覧、外は広いぞ」という言葉があります。日本という狭い世界にとどまっていないで、もっと広い世界に目を向けてみなさい。ということでしょう。

聖書の言葉を読んでいくと、私たちのこの世の世界だけではなく、その向こうにある世界があることを教えられます。しかも、この世の生涯は70年、80年としてもそれは短いものであり、やがて来る世界は永遠の世界であるといわれています。

「どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか」という質問は、つまり、「どうして「聖書の神」を信じることができるのですか」という質問と結びついています。神がどのような神であるかが分かるにつれて、神が私たちに約束しておられる永遠の希望である「永遠のいのち」を信じることができるようになるのです。

あなたは、人間という器と神という器とどちらが大きいと思われますか。人間が作り出した偶像は神ではないと聖書は教えています。まことの神は私たち人間よりもはるかに大きな神であり、人間の器の中に神を入れ込むことはできません。神様のほうが大きいのですから、私たちは神様がご自身を表してくださったことによって、初めて神を知ることができるようになるのです。

私たちが神を知り、真理を知る道は、人間が修行を重ね、努力を重ねて上に上り詰めていくようなやり方ではなく、神によって啓示されること、神が私たちの心に語りかけ、その願いを起こさせてくださることによって、人間の殻を破った新しい世界を見ることができるようになるのです。

 

Q46 「永遠のいのち」を信じなくても精一杯に生きればよいのではないでしょうか

 

どの人も、生きている限り、自分の生きることの意味を問います。そしてやはり、心の奥底には、自分の人生が無意味でないようにと願うことでしょう。

このときに、もしも人間がこの世に生きている間だけ存在し、後は消えてしまうものであるとしたら、結局は生きていることに意味はないのではないでしょうか。どんなに恵まれた人生を送ったと思っていても、死によって終わってしまう人生。死に飲み込まれて終わる人生はむなしいと思います。

もしも私たちが現世限りの存在であるとするなら、生まれつき障害を持った人などは報われないでしょう。

現世利益だけを追求するのであれば、この世でできるだけ好きなことをして、楽しめばいいということになります。「もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。」どうせ明日は死ぬ身ではないか。」(1コリント15:32)ということになってしまいます。

だれでも、自分の人生に意味があることを求めますし、自分という存在が肯定されることを求めていると思います。

ですから、「死を超えたいのちへの希望」ということは、どの人にとっても、その人の根源的な願いなのではないでしょうか。

 

Q47 今の時代、私たちが抱えているもっとも深い根本的な問題は何でしょうか

 

あなたは今の時代、人間の社会のありようをどのようにご覧になっているでしょうか。

私たち人間にとって、もっとも深い、深刻で根本的な問題は、聖書が述べているように罪と死の問題であり、それは神との関係の問題であると思います。

ここで、先日行った説教の一部を引用してみます。

「「私たちにはいろいろな状況があって、今の状況というのは暴風雨が吹き荒れているような日本の状況ですね。政治的に、経済的に、教育的に、激しい変動が起こり、何か私たちが立ってきたいままでの文化、今までの価値観、今までの社会生活というものが、ぐらぐらと動いている。そういうものを感じる時代に私たちはすんでいます。

今までの文化や考え方の土台が覆されようとしています。しかし私たちクリスチャンは、こういう時代で立つことが出来るものを持っているんです。これは幸せだなと思います。地震が起こっている。暴風雨が吹き荒れている。そして私たちはその影響を受けてしまう。どうしても、受けざるを得ない。日本にすみ、この時代に生きている限りはその影響を受けるのです。

しかし、そういうような地震やあるいは嵐がありましても、私たちがしっかりと立つべき場所があるというのは強いと思います。

ダビデが言ったように、たとい山が海の真ん中に移っても、私は恐れない。海がなりとどろいてあわ立っても私は恐れない。万軍の主がわれとともにおり、彼が私の避けどころであるというしっかりとした信仰を持つと、私たちは強いと思います。

ダビデは主のことを岩と呼びました。彼は敵がたくさんいたということもあったでしょう、命が狙われているという恐怖をたびたび感じて、何となく底なしの沼にずぶずぶ沈んでいくような、あるいはあり地獄といいましょうか、ありが穴からはえずり上がろうとしても、砂が崩れてしまって這い上がることが出来ない、というような気分に、頻繁にダビデはその心の思いを告白しているんですが、そのダビデが言うことは、あなたは私の岩です。

あなたは沼地から私を救い出して、しっかりとした岩の上に私を置いてくださいました。そしてダビデはこの岩の上にたつといいました。

私たちは、たつことの出来る福音というものを持っている。私たちは真理に立つことが出来るわけです。

ある面で、私たちクリスチャンであっても覚悟をしなければならないと思います。今私たちは厳しい状況にいて、しばらくこの厳しい状況は続くだろう。

あと5年もすれば解決するとか、あと10年もすれば解決するというようなレベルのことではないだろうと思います。覚悟をしたほうがいいと思います。覚悟をすることが出来るのはなぜかというと、私たちは真理というものを知っている。岩というものを知っている。永遠的なものを知っている。

今はいろいろな価値観があって、永遠的なものも一時的なものも、せつな的なものも混在していますが、やがてはせつな的なものはせつな的なものとしてはっきり色があせてきて、はっきりとその性質が現れるときに、このときにこそ福音の性質、福音の価値観、福音の永遠性というものがはっきりと現れるわけで、私たちは二股をかけるわけには行かない。この福音の上にしっかりとたつということが要求されていると思います。

立つということは、じたばたしないということですね。立つということは、慌てふためかないということです。あせらないでしっかりとそこにたつ。そしてこの福音というものは、2000年の歴史を耐えてきた。戦争もありました。戦いもありました。迫害もありました。聖書が全部燃やされるような状況の中にもありました。しかし耐えて、いき続けてきた、正真正銘の神の言葉があるわけですから、私たちは徹底的にここにたち続けるということが大切だと思います。

今はテストのときです。日本の文化。日本の価値観。日本の教育システム。政治、経済が全部テストされているときです。そして私たちの信仰もテストされています。

イエス様は、皆さんのよく知っているお話をされましたけれど、あるものは砂の上に家を建てた。あるものは岩の上に家を建てた。そして嵐がきた。嵐は両方の家に襲ってきたんですけれど、気がついたときには、砂の上に立てた家は押し流されて、全部破壊されてしまいました。

しかし、岩の上に築いた家は、そこにたち続けていたということで、そういうふうに、たつか倒れるかがはっきり現れていく時代に私たちははいっていると、そう思います。」

 

Q48 聖書には、「信仰と希望と愛」はいつまでも続くといわれていますが、このときの、信仰、希望、愛とはどのようなものなのですか

 

信仰と希望と愛はそれぞれに密接に結びついています。

神への信仰によって希望を抱くことができ、愛の深さ広さを教えられます。希望は信じることによって生まれてくるものですが、神によって希望を与えられると、信頼としての信仰も深められていきます。愛はその相手を知ることを求めますが、知ることによって信仰と希望が強められていくのです。

人は(神に)愛されることによって信頼(信仰)を抱くようになり、他者(神)との信頼関係の中で希望を抱くようになります。愛されていることが分かると、他者を愛することができるように、そこに喜びを見出すようになるのです。

信仰は、(神の言葉を)聞くことから始まります。聞いたことがないのに信仰をもっているという人はありません。私たちは、努力や精進などによって神を知ることはできません。神を正しく知る方法は、神が与えてくださった神のことばである聖書によって神を知り、神のみこころを知り、神が私のために何をしてくださったのか、私は神の前にどういう存在であるのか、私がこの世に生きるとはどういうことなのか、人生の目的とは何か、これが私の生きる道といえる確かな道がどこにあるのかなど、この人生において私たちが知るべき事柄、救われるみちすじ、生きるべきめあて、永遠のいのちといったものを神は聖書において語ってくださっています。この聖書を現代の私たちへのメッセージとして解き明かしていくのが、日曜日に行われる礼拝であり、説教です。礼拝の中で説教を聴きつづけることが大切です。あなたも礼拝においでになりませんか。

あなたは、「永遠に続くものはなんですか」という質問に対して、どのようにお答えになるでしょうか。今はやっている歌謡曲も、やがては歌われなくなります。自動車もパソコンもモデルチェンジがしばしばなされます。

立派なビルディングも家もやがては崩れるときがやってきます。ローマ帝国や徳川幕府もいずれは消滅していきました。日本は天皇のいる神の国だといって戦争をしましたが、多くの犠牲者を出して戦争にも敗れました。

お金や財産もやがては消えていきます。この地球や天体もやがては消え去るときが来ると聖書は教えています。

あるときイエス様はこんなことを言われました。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

(マタイによる福音書6:19~20)

天に積まれた富は、いつまでも残るものだと言われるのです。天に富を積むとはどういうことなんだろうと考えさせられますが、これも信仰、希望、愛にかかわっていることのようです。関連項目として、例えば次のような言葉があります。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

(マタイによる福音書10:42)

私たちが、社会的に弱い立場にいる人(例えば、障害者、高齢者、幼児、在留外国人、難民、ホームレス、貧しい人、虐待を受けている人、助けを必要としている人など)を愛するなら、それを神様は覚えていて、報いを与えてくださる。このような働きは決して忘れられることはないというのです。

 

Q49 クリスチャンにとって死とは何ですか

 

死とは本来、いのちの源である神様との関係が損なわれてしまっていること、神様との断絶状態にあることを意味していますが、神との関係が回復されたクリスチャンにとって、死とは永遠のいのちへの始まりです。

すでにキリストの十字架の血潮によって罪を赦されたものは、死に向かう人生ではなくて、永遠のいのちに向かう人生を生きているのです。ですから、恐れる必要はありません。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38~39)

 

キリスト教における永遠の生命

キリスト教では、永遠の生命はこの世からすでに始まっているとされます。この世の生命と死後の生命とは、たとえば、序曲とそれに続くオペラのように密接な関係でつながっていると考えられているのです。

キリスト教徒にとって、死はもう取り返しのつかない終末ではなくて、新しい

生命の始まりです。

イエス・キリストが十字架上の死を乗り越えて復活されたように、死後に天国で、先に亡くなった愛する人たちと再会し、ともに神の無限の愛に包まれて生き続けるという希望が、キリスト教信仰の根底を支えています。

ですから、聖書は死について、あきらめに沈むような言葉ではなく、喜びにあふれた表現で人々に語りかけます。

「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて

私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」

一ヨハネによる福音書第11章25節一

 

ここで、キリスト教における

葬儀についても一言述べておきましょう。

次のページをご覧ください。

 

キリスト教の葬儀について

 

「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。』ヨハネ1125

静岡キリスト教会 牧師 遠山信和

〔葬儀の意義〕

キリスト教の葬儀になじみのない方もおられると思いますので、キリスト教の葬儀についてご説明いたします。私たちは葬儀のなかで故人を礼拝したり、お焼香したり、写真に手を合わせて拝んだりしません。そのためにキリスト教は故人やご先祖様を大切にしないと言われる方もありますが、決してそうではありません。

聖書では死とは「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者の書12章7節)ことであると言っています。

自分を生かしてくれた肉体と霊魂が分離し、肉体はちりに撮り、霊魂は神の手の中に帰ることです。

ですから、亡くなった魂に対して、残された遺族がいろいろと供養することによって天国や地獄が決まると思って努力したり、また故人が神や仏になったといって、礼拝したりしないのです。故人はいつまでもその人の人格として神の手の中にあるからです。

人の死後はいのちを与えてくださった神様が定めることです。人間の業によって死者の霊が慰められることはありませんし、死者の霊が神になることもありません。ただ生前イエス・キリストを救い主と信じた霊魂は、間違いなく神のみ国に入り、永遠の命が与えられると約束されています。

主イエスは言われました。『まことにまことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』ヨハネ5章24節。

私たち人間が礼拝すべきお方は、天地の創造者であり、私たちにいのちを与えてくださった唯一の生ける神だけです。そして神は、神以外の偶像などを礼拝してはならないと固く戒めておられます。「あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。』出エジプト記20章3~4節。

ですから、キリスト教の葬式は、故人を拝むのではなく、これまで私たちをお守り下さった主なる神を礼拝し、また故人の徳を偲び、残された遣族の方々を慰め励ます時なのです。

『あなたの父と母を敬え。』とモーセの十戒にありますように、私たちは聖書の教えに従った立派な先祖が天に召された今、残された遣族や友人を大切にし、神の祝福を受けた生活をすることこそが、故人が一番喜ぶことと確信しています。

 

Q50 人生にとって最も大切なこと、なくてはならないこととはなんでしょうか

 

先に、信仰は聞くことから始まるといいましたが、人生において最も大切なこと、なくてならないことは、神の言葉を聞くことです。

ルカの福音書には、マルタとマリアの姉妹のことが書かれています。マルタはお客さんの接待のことで頭がいっぱいでしたが、マリヤはじっとイエス様の話を聞いていました。それを見てイエス様は言われたのです。

「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10:41~42)

人生において最も重要なこと、必要なことは実を言うとただ一つなんだ。それは神の言葉を聞くこと。このことによってあなたのあらゆる必要は満たされるようになるといわれたのです。

関連して、有名な言葉をひとつあげておきます。

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』     (マタイによる福音書4:4)

聖書を読んでいくと、実は私たちは、自分の力で生きているのではなく、神様のことばによって(神の意志によって)生かされているんだということに気づかされます。神様の恵みと支えが、あそこにもここにもあるんだということを知らされるのです。

ドイツのグーテンベルグという人が、十五世紀に印刷機を発明し彼の印刷機を使って最初に刷られた本が聖書でした。

それ以来、聖書はいつの時代もそして世界の多くの国々でベストセラーとなっている書物であり世界で一番よく売れている書物です。国際聖書協会の発表では世 界中の聖書協会が2000年に配布・販売した聖書(全体、または一部)は6億3,300 万部に及びます。また聖書は世界で一番多くの言語に翻訳されています。
聖書の全体、または一部は、2000年末の時点で2,261の言語に翻訳されており、これだけ多くの言語に訳されている書物は聖書以外にはありません。

現在は全世界の98パーセント以上の人々が聖書を自国語で読めるようになっています。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

(1コリント15:10)

おわりに

この文章を読んでくださるかたがたへの私の切なる願いは、あなたのために神が何をしてくださったのかということを、聖書によってよく理解していただきたいということ、そしてそのような神の愛を覚えつつ、今度はあなた自身が神様の愛にこたえるために神様が喜んでくださるような生き方をするために、あなた自身で、自発的に追求し、考え、行動を起こしていただきたいということです。

聖書の言葉は、神様からのあなたへの語りかけです。それは一方通行で終わる言葉ではなくて、神はあなたの応答をそこで求めておられます。