新型コロナウィルスの広がりとともに考えたいこと             

今年になって刻々と移り変わっていく世界情勢の中にあって、変わることのない聖書の真理に立って私たちはこれをどのように受け止め、これに対処していったらよいのかが問われています。修養会の時と言わず、今こうした時に、キリスト者として私たちが受け止めていきたいこと、考えておきたいことを私なりにまとめてみました。

47日、日本では「緊急事態宣言」が出されました。適応される都市は、東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県ということです。その後全国に広げられることになりました。

政府からは、外出や会合などを自粛することが要請されています。事態の深刻さを覚えて、内外の国と人々のための祈りに導かれています。

「5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3~5)

 

苦難と練達 ウィルスと抗体

ウィルスに感染した方を非難したり、差別するようなことが行われていますが、そのような行為は慎むべきです。この世界には目には見えなくても無数の微生物や、細菌やウィルスがあり、私たちはそれらと共存しつつ、助け合いつつ、この生命を維持してきていることを忘れてはなりません。

すべての人が無菌室(むきんしつ)で毎日暮らしていればウィルスに感染することはありませんが、それは不可能なことです。無菌室とは、国際的な規格により空気清浄度を定められた病室でバイオクリーンルームとも呼ばれます。血液疾患、感染病などで抵抗力が落ちている患者が、ウイルスなどによる空気感染を防ぐために使用するものです。治療のために、一時的に無菌室が使われることはありますが、もしもずっと無菌室で過ごしてきた人があったとすれば、その人は、抗体がつくられず免疫力が弱く、細菌やウィルスに対する抵抗力がないために無菌室を出たとたん様々な病気になってしまいます。

実をいうと、これまでペスト菌によるペストやチフス菌による腸チフス、ウィルスによるインフルエンザ、結核菌による肺結核など、様々な病気が世界ではやってきたのですが、人類が克服することが出来たと言われるものは天然痘ウィルスだけなのです。これ以外のものは人類がまだ克服することが出来ていないものですが、人体の中に抗体が出来てきたために発症が抑えられてきているものです。しかし、天然痘以外の伝染病で亡くなる人は少なくなったとはいえ今でもいるのです。

これと同じことを次のように言い換える言こともできるでしょう。もしも私たちが何の試練も重荷もないままに生活してきたとすれば、あたかも無菌室での生活を続けてきたのと同じようなことで、抗体も免疫も持たないままに過ごしてきたことになるのです。

試練や重荷は、私たち自身が成長していくためにも、そして人生の深さ広さを知るためにも、愛の豊かさを知るためにも、人の痛みを知るためにも必要なことなのです。

隣人愛の具現化

旧約聖書には今日の「公衆衛生法」に相当する記述が市民律法として各所に記されています。それは他の古代の法律のように、現実生活の必要から生み出されただけではなく、神がご自身の民を愛するがゆえに、また、その民が隣人を愛するようにと与えられたものだといえます。
 つまり、聖書が記す公衆衛生法の前提にあるのは、「神から民への愛」であり、その根底にあるスピリットは「隣人を愛すること」です。聖書的公衆衛生は、単に、「共同体の存続のための法律」ではなく、「隣人愛の具現化」だと考えるわけです。ですから、旧約聖書が示す「律法の精神」を、「現代の特定の状況下において、どういう形で、具現化していくのかということが、判断の指針となります。

キリスト教会においても、聖書の指針に立ち、告白している信仰にふさわしく「隣人愛を特定の状況下でどう具現化するか」を考えることが必要です。現状にあっては、「マスク」「手洗い」「消毒」「自粛」が、まさに「隣人を愛すること」であり、また、場合によっては、中止、延期などが、隣人愛の具現化なのだといえるでしょう。

近年は「信仰があれば、感染しない」という「信仰根性主義」や「神様を第一にすれば、責任は神様が取ってくださる」という「信仰による自己責任放棄」という考え方は、あまり聞かなくなってきました。

また、「感染症の大流行は神の裁き」「黙示録の預言の成就」などという考え方も、以前に比べれば、減ってきています。これは信仰が委縮したのではなく、成熟したのだろうと思います。「個人と神の主観的関係の信仰」から、「信仰共同体としての歩み」「キリスト者の社会的責任を視野に入れた歩み」へと成熟してきたように思います。数々の自然災害を通じて学習し、「災い」についての見解も聖書的に成熟してきたのではないでしょうか。

コロナウィルス以外で多くの人が死に向かう

新型コロナウィルスの広がりとともに日本全国で自粛ムードが広がってきていますが、このための対策や祈りと共に、さらに祈りを深くしなければならない問題があります。

これは医学誌「ランセット」に掲載された論文です。

この論文は、今年 226日に掲載された「隔離の心理的影響とその影響を減少させる方法」という内容のものですが、この論文で言われているように、

「隔離や封鎖や社会的距離に代表される《人を孤独に追い込む政策》は、人体への大きなリスクを含む」

ということが、医学的に検証されているということです。政府は自粛要請をし、欧米諸国の都市などは法的な罰則を伴ったロックダウンの状態に置かれています。ヨーロッパの場合は、感染者数の増加率より、「死亡数の増加率」のほうがはるかに上回って進行しています。たとえば、以下は、フランスの過去 2ヵ月の感染確認者数と死亡者数の推移です。

フランスの「封鎖(ロックダウン)」は、317日に始まりました。それから、まだ 3週間ほどですが、・感染確認数 9134人  124869人 と大幅に上昇しましたが、しかし、それよりも、・死者数が 11人  13197人と、極端に上昇しています。そして、封鎖が続く限り、これは、イタリアでもフランスでもアメリカでも、あるいは日本で封鎖が始まれば、こうしたことは、封鎖をおこなっているすべての国で起きる」ということが予想されるのです。「強制的な隔離、封鎖、社会的距離は、人の死亡率を大幅に高める」ことが医学的にも証明されているからです。

先のランセットの論文の概要は以下の通りです。

概要

2019年12月のコロナウイルス感染症の発生により、多くの国で感染に接触した可能性のある人たちに、自宅あるいは専用の検疫施設で隔離するように依頼する例が増えている。しかし、隔離の適用方法の決定は、入手可能な最良の証拠に基づいて行う必要がある。

今回、電子データベースを使用し、隔離の心理的影響のレビューを行った。見つかった 3166件の論文のうち、24件がこのレビューに含まれている。

ほとんどの研究では、隔離による、心的外傷後ストレス症状(PTSD)、混乱、怒りを含む負の心理的影響を報告している。

より長い隔離期間、感染への恐れ、欲求不満、退屈、不十分な物資の供給、不十分な情報、経済的損失がストレスを生み出していた。一部の研究は、その影響が、一時的なだけのものではなく、長期的になることを示唆した。

隔離が必要と思われる状況では、職員は、隔離の根拠と手順に関する情報を十分に提供し、十分な物資が提供されることを確認する必要がある。そして、より広い社会への隔離の利点を公衆に考えさせることによって利他主義にアピールすることが有利に働く場合もある。

従って、封鎖や隔離を行う場合には以下のことに注意するように教えています。

・隔離された人に十分な情報と状況の説明を与えることが重要。

・隔離された人たちに対しては、効果的で迅速なコミュニケーションが不可欠。

・一般物資と医療用物質の十分な提供が必要。

・極端な状況でない限り、隔離期間は短く、そして期間を変更してはいけない。

・悪影響のほとんどは、自由の制限を課すことから生じる。なので、自発的な隔離を促すことが、苦痛の減少と長期的な合併症の減少に関連する。

このランセットの論文以外にも、以前から医学の世界では「孤独」というものが、どれだけ人の死亡率を上昇させるかということが何度も論文で述べられています。

・社会的つながりやコミュニティとの接点を失うことで死亡率が50%上昇していた(アメリカ国立医学図書館

・孤独と孤立は、認知症の発生率を50%上昇させる medium.com

・孤独と孤立は、脳卒中を 32%増加させる medium.com

・孤独と孤立は、ガンの罹患率を 25%上昇させる medium.com

・社会的つながりを持たないほど、風邪を含む感染症にかかりやすい アメリカ国立医学図書館

・高齢者の孤立は、糖尿病を極端に悪化させる アメリカ国立医学図書館

・社会的孤立は、他の疾患の死亡リスクに匹敵する重要な致死要因 アメリカ国立医学図書館

こうした論文からも教えられることは、「隔離は人を死に導く」ということです。上のフランスのグラフにおいても、おそらくは、封鎖と隔離がおこなわれていなければ、このような悲惨な死亡率の上昇は、「なかった」はずなのです。

中国の武漢では、3か月にもわたる都市封鎖が行われ、最近になって封鎖が解除されましたが、武漢から脱出しようとする人々が殺到したため、中国当局は再封鎖を行っていると言われています。

隔離・封鎖を行う人たちには、十分な情報が伝えられなければならないと言われています。日本でも連日新型コロナウィルスについての報道がなされていますが、なぜロックダウンをするほどに警戒しなければならないのか、未だに十分な情報は伝えられていないようにも思われます。

その大きな原因は、日本では他国のように検査をしていないために状況を正確に把握できていないことがあげられます。現在のところ日本での新型コロナウィルスによる死者数は413日の時点で108名です。このところ日本で肺炎で亡くなる人は年間約10万人おられます。インフルエンザによってなくなる人は年間4000人です。これと比べてもこの度のコロナウィルスの死者はあまりにも少ないのです。これまで肺炎の死者にしてもインフルエンザによる死者についても、それほど騒がれることはありませんでした。私の予想ではむしろ、封鎖や隔離による死亡者の方がはるかに多くなるのではないか。このことを考えると封鎖や隔離は慎重に行わなければならないことを教えられます。

中国のメディア「財経」は、武漢にある 8つの火葬場にある「骨壺」の数から計算して、「武漢だけで 59000人が亡くなったと計算できる」と発表していました。私はこれでも、中国当局に忖度して少ない人数を算出していると思います。そしてこの死者のうちコロナウィルスで死亡した人よりも、それ以外の原因で亡くなられた方々の方がはるかに多いのではないかと予想しています。

 求められるリーダーシップとフォロワーシップ

 現在、多くの教会で、マスク、換気、消毒、手洗い、諸集会の制限などの対策がなされ、注意喚起のガイドラインが発信され、様々な予防策が取られるようになってきています。その目的は信徒を感染から守ることだけでなく、教会が外部の方をも感染から守ることです。そして、それは、社会にあっては、教会が隣人愛を実践し、社会的責任を果たすことにもつながります。
 
 私も可能な限り新型コロナウィルスやこの社会情勢に関連する事柄について記してきましたが、各教会の牧師や役員などリーダーは、悩みながら具体的指針を示し、予防策を実行します。しかし、そこには、前もってわかる「確実な正解」などありません。信徒の誰もが納得し、同意できる指針や実行など、どこにも存在しないのです。
  
 ですから、リーダーとして責任を負わない信徒の方々には、決められた予防策に正直、同意できない思いもあるでしょう。深刻な危機感がなければ、「そこまでする必要はないでしょう。自主判断に委ねられるべきでしょう」と不満を持つかもしれません。逆に、深刻な危機感の持ち主は「教会の予防策は不十分、もっと徹底すべきでしょう」と批判的な思いを抱く方もおられるかもしれません。
 どちらからも不満や批判の声が起こる可能性は避けられません。それを避けるために、リーダーが何もしないなら、それこそが責任放棄であり、最も批判されるべきでしょう。
 まずは、牧師や役員たちは、こうした厳しい責任を負っていることを理解したいものです。そして、愛の故にその責任を果たそうとしているのなら、その責任遂行について、信徒はどう受け止め、応答すべきなのでしょうか?
 
 そこで、提案したいのが、「リーダーシップ」と「フォロワーシップ」です。

東京大学アイソトープ総合センターセンター長兼東京大学先端科学技術研究センターの児玉龍彦教授は、今の日本の在り方を見る時、ウィルスの広がりということ以上に問題となっていることは、真に国民のことを考えるリーダーが不在であるということだと言われました。

これは聖書の歴史を見ても同じことが言えるでしょう。モーセやダビデのような神に仕える優秀なリーダーが輩出した時にはその国は繁栄し、人々は様々な危機を乗り越えることが出来ました。しかし、リーダーが堕落している時には国民もまた苦渋を味わうことになったのです。

しかし、神は、いつの時代にも、リーダーが堕落している時にも神の前に膝をかがめ、神を信じて生きる「残りの民」を起こし続けてくださいました。

そして、いつの時代にも試練や不安があったことをも、私たちは併せて覚えていきたいと思います。

一流のリーダーとは

  聖書に基づいて一流のリーダーを考えるなら、それはまず第1に、まことの神を神として仰ぎつつ生きる人です。神と共に生きる人といっても良いでしょう。  そして第2に、絶対的な使命感(召命感)を持った人です。コンセンサスよりも、ミッションのために壁を壊す意思決定ができる人、自分が決断したことへの強い責任感がある人です。さらに第3に、愛をもって仕える人です。

米国、ニューヨークではたくさんの感染者・死者が出ていますが、クオモ知事の言葉とリーダーシップに多くの米国民は励まされ、心から協力しているように思われます。

イタリア人記者:
収集つかずに失敗となった場合に責任はとるのか?
安倍日本国首相:
最悪の事態になったからといって責任を取ればいいというものではない。(緊急事態宣言会見で)
クオモニューヨーク州知事:
全ての責任は私にある。何か問題が起こったら私が責任を取る。(毎日行われている会見で)

クオモ知事は、連日の会見で、厳しい現実を隠すことなく発表しています。

「病院はもう収容能力の限界を超えた」

「マスクやガウンはもちろんのこと、人工呼吸器が全く足りない」

そうやって正直に、嘘の無い数字を公表することで、どこにどれぐらいの助けが必要なのかが明確にわかります。そうすると、様々な物や人材が、各州から続々と集まってきて、相互の助け合いが生まれます。

クオモ知事はアメリカの方ですが、吉田松陰は次のような言葉を残しています。「乱は兵戦にも非ず、平は豊曉にも非ず、君君たり 臣臣たり 父父たり 子子たり 天下平なり」

これを意訳すれば、「世の中が乱れているのは戦争が起きているからではない。平和なのも豊作だからではない。主君が主君らしい仕事をし、家臣が家臣らしい仕事をし、父親が父親としての役目を果たし、その子どもも子どもとして励んでいれば、世の中は収まる」という意味です。

この考え方を現代社会にあてはめてみるなら、企業や大学、役所、教会など組織をけん引するリーダーがリーダーらしくふるまい、リーダーらしい仕事をし、リーダーを選んだ人たちもリーダーを信じて献身的に支えていけば、先行き不透明な時代であっても必ず未来に光が灯るということです。

その「リーダーらしさ」とは、先に挙げた、「神を神として生きる信仰」であり、そこから生まれてくる「絶対的な使命感」です。自分自身は主ではない、欠け多き土の器に過ぎないことを自覚しているリーダーは、主に信頼して、聖霊に導かれ、愛をもって神と人々に仕える者とされていくのです。ミッション遂行のためには摩擦や苦難を恐れず、時には命をも惜しまず、すべてを投げ出せるということでしょう。そうした姿勢や行動に、皆はついていくのではないでしょうか。

フォロワーシップとは

 

リーダーシップはよく聞くことがあっても、フォロワーシップはあまり聞きなれない言葉であるかもしれません。しかし、こちらも重要です。

一言付け加えるならば、リーダーとしてふさわしい人材は、神に対する確固たるフォロワーシップを持った人であり、100%父なる神に従ったイエス・キリストはその最高の模範を私たちに示してくださったお方なのです。

フォロワーシップとは日本語で一言で表現すれば、「リーダーへの自律的支援」と「組織への主体的貢献」 です。 フォロワーシップは、部下という立場の人が目的を共有するチームを機能させるため、上司やチームメンバーに対して、主体的に働きかけることです。
 「フォロワーシップとは、 企業組織においてリーダーを補佐するフォロワー(部下やメンバーなど)が、リーダーに対して自律的支援を行うこと です。 具体的には、フォロワーはリーダーの指示に従い業務を遂行するだけでなく、リーダーの行為に誤りがあれば意見するなど自分で考えて主体的な働きかけにより支援します。」
  リーダーではない多くの信徒はフォロワーです。すべきことは「支援」だと思います。「つべこべ言わず従う」ということではなく、「文句を言いながら、そうする」のでもありません。また、「リーダーが間違っているなら、批判し責める」のでもありません。
 個々が、主体的に考え判断し、「従う」あるいは「修正を提言する」というかたちで「リーダーの支援」をするのです。そして、「感染防止」「公衆衛生を通じての隣人愛の実践」「社会的責任の遂行」などの教会が共有すべきビジョンを果たしていくのです。
  リーダーはフォロワーを愛し、責任を負うのですから、フォロワーもリーダーを愛し、フォロワーとしての責任を果たしましょう。それが聖書的な関係だと私は考えています。おそらくこのことは、教会政治規準や礼拝の在り方などのスタイルを超えた普遍性を持つのだろうと思います。
 これは、キリストと教会の関係、夫と妻の関係と同様と言えるでしょう。
 
 「従う側の愛と責任を神様は求めておられるのでは?」
今回は、その点を受け止めていただきたいのです。
  
 危機対応は、やりすぎて結果的に「そこまでやる必要はなかったよね」でも、成功だと聞いています。信徒は結果を見てリーダーを評価できますが、リーダーは見えない結果を予想して対策せざるを得ません。そうなれば、「危機対応については、やりすぎくらいでちょうどいい」という判断を強いられる面があります。リーダーを愛し、そのような立場を愛の想像力をもって理解し、フォロワーシップを発揮しましょう。
 逆に「危機感が足りん!」「十分に手を打たず、怠惰、責任放棄」と思える場合は、「批判、攻撃、文句、愚痴」でなく、「信頼できる情報、根拠、判断材料」をもって「対案」「具体案」を示し、修正を検討してもらいましょう。どこまでも動機は「敵意」「自分の正しさの証明」「自己効力感の獲得」ではなく、「愛」なのです。
 静岡教会小会ではおおよその在り方について話し合って決めましたが、 「礼拝をどうするか?」「諸集会はどうするのか?」「食事はどうするのか」「欠席された方のフォローはどうするのか?」「今後考えられる見通し」など・・・。それぞれの教会でも検討されていると思います。また信徒の方々もどうしようかと悩まれることもあるかと思います。

政府からは自粛の要請があり(しかし仕事を休んだ時の生活の保障はほとんどなし)、これがいつまで続くものか分からず、仕事が出来ない方々や失業や倒産した方々には生活の不安を覚えておられるに違いありません。

孤独と孤立」が如何に人々に悪影響を与えるものであるかは先に記したとおりです。私たちはこの時も主の御心を求めて祈りつつ、主の召しにお応えしていきたいと思います。

最後に、水谷潔牧師による「キング牧師が新国立競技場から日本の諸教会に語ったら」という文章をご紹介いたします。試練の中でこそ、脱出後の夢を信仰をもって語り、希望に歩むことを願って。  「妄想キング牧師~私には夢がある」
       (キング牧師が新国立競技場から日本の諸教会に語ったら)

今日、私は、オリンピック延期という歴史に残ることになるこの場所から、また、各地で外出自粛要請が出される中で、日本の諸教会に語り掛けられることを嬉しく思う。

絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日、私は皆さんに言っておきたい。私たちは、今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、聖書の約束に深く根ざした夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、神が試練と共に備えてくださっていた脱出の道を、われわれが見い出し、歩み始めるという夢、約束のものを手にするという夢である。 
 私には夢がある。それは、いつの日か、神の民が恐れなく礼拝堂に集い、神を礼拝し、飛沫感染を気にせず、喜びの賛美をささげ、共に食事を楽しみ、主にある親密な交わりを喜ぶという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、災いの中で奪われていた恵みが回復した時、その恵みを再発見し、それまで以上に、喜びと感謝に満たされて信仰生活を送る「一時的喪失による恵みの再発見」という夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、以前のあり方に礼拝が戻った時、同じプログラムなのに、以前よりも、はるかに神が喜ばれる真実な礼拝がささげられるという夢である。 
 私には夢がある。それは、義務感でお付き合いのように決められた曲を歌っていた礼拝者が、心からの喜びをもって、歌詞を自らの信仰告白や願いとして歌い、神を賛美するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、交わりを避け、個人的信仰に終始してきた兄弟姉妹が、交わりの恵みに目が開かれ、交わりに生きる健全な神の民として歩んでいるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、自分の願い事に終始していた祈り手が、日本の諸教会、日本社会全体のため、世界中の苦しむ人々のために執り成す祈り手となっている自分を発見するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、牧師依存であった神の民が、試練を通過したことによって、キリストのからだの一部とのアイデンティティーをもって、牧師と共に教会のために祈り、考え、支える者へと成熟するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、主の再臨を意識することなく、地上生涯を歩んでいた神の民が、終末を想起させる惨状に触れ、キリストの花嫁としてふさわしい者へと自らを整え始めるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、キリスト者の自由や社会的責任など考えも及ばず、自分の半径3メートルの信仰生活に歩んできた者が、目を開かれ、深い思索と広い社会性をもった信仰理解へと成熟していくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、安心して親しく語り合う中で、お互いが、以前に増して神と人を愛する者へと成長したことを発見し合い、互いの成長を喜び合うという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、神の御手の中で、今のこの災いでさえ、神の民を成熟に向かわせ、キリストのからだを建て上げるために用いられたことを、われわれが悟り、神に感謝をささげるという夢である。

これが、われわれの希望である。私はこの信念を抱いて、今、この新国立競技場から、日本の諸教会に語り掛けている。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の不安に満ちた不協和音を、平安に満ちた美しい交響曲に変えることができるだろう。

この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に忍耐し、共に祈り、共に労していくことができるだろう。

自由の鐘を鳴り響かせよう。災いからの解放の鐘を打ち鳴らそう。忍耐をもって祈り、希望をもって歩み続けるなら、神の子すべてが、恐れることなく、共に手をとり合って、神を賛美する日が到来するだろう。

ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはついに自由になったのだ!